応募原稿『タイトル未定』21,22,23,24,25ページ


 ニィ、ニィと、何物かがちゃぶ台の下で鳴いた。靴下の裏をくすぐる感触に再びちゃぶ台の下を覗くと、白黒のぶちねこが僕の靴下を舐めている。ダメダメ、そんな所を舐めたら汚いよととっさに小さな彼を抱き上げると、僕は膝の上にそっとおろした。心地よいふかふかとした感触。白い部分はまるで新雪のように白く、黒い部分は月のない夜のように黒いその猫は、まだ仔猫らしく随分と小さい。ピンク色の首をしているあたり、櫛田さんちの家猫なのだろうか。そのきょろきょとしたつぶらな瞳を細めて、くすぐったく僕の膝の上で転がる姿は、狂おしいほどの愛おしさを感じてしまう。あぁ、今すぐその姿を写真にとって、ケータイの待ち受け画面にしてしまいたい。
「なにしてるのよ、東くん、そんな前かがみになって。やらしいわね」
「や、やらしいってなにがさ。僕は、なにもやらしい事なんて考えてなんかいないよ。ほら、ここ見てよ、僕の膝の上。この猫を見てただけだよ」
 本当の所は、ついさっき少しだけ、やらしいことは考えていたのだけれども、正直に言っても恥ずかしいだけなので速攻で否定した。本当かしらと、不敵に笑う櫛田さんは、やっぱりどこか意地悪な所があると思う。
「そう、猫が居たのね、それは気がつかなかったわ。ごめんなさいね、変な事言って意識させちゃって。東くんの焦った顏、とっても面白かったわ」
「いっ、意識なんかしてないってば。もう、酷いや櫛田さん、変な事言ってからかわないでよ。そ、それにしても、かわいい猫だね、この猫。まだ子供みたいだけど、もしかして親猫や他にも仔猫を飼ってるのかな」
「さぁ、わかんないわ。私は家で飼ってる猫には何も関与してないから」
 関与してないって、なんだそれ。櫛田さんは淡々とした動作でお盆に載せていた二つの湯のみと急須を机に置くと、再び台所へ戻る。そして、今度はお盆の代わりに木製の皿を持ってくると、同じく脇に抱えたあられの袋からあられを掻き出して、皿にこんもりと盛った。白色に緑色、赤色と白地にごまが練り込まれたまだら色と、小さく素朴な形のあられたちが皿で踊る。
 こんなのしかないけれど、さぁ、召し上がれ。櫛田さんは微笑みながら湯のみにお茶を注ぎ、湯のみの一つを僕の前に、もう一つを彼女の前に置く。僕が手をつけるよりも早くお茶に口をつけた彼女は、はぁと、うっすらと白みのついた浅いため息をついた。やっぱり寒いときには、温かい緑茶に限るわねと、誰に言うでもなく呟いた、彼女の顔がなんだかとても幸せそうで、見てるこっちまでほっくりとした気分になってきた。そうだねと、僕もまた誰に言うでもない感じに呟いて、彼女が注いでくれた湯のみに手を触れた。
 ニーッ、とその時膝の上の猫が鳴いた、跳んだ、僕の右腕に体当たりし、激しく揺らした。手に持っていた湯のみがひっくり返り、仔猫が飛び出した膝の上向かって真っ逆さまに落下する。まずいと思ったが、避けようにも避けられるものではない。たまらず急いで目を瞑っても、僕の太股を襲った焼けるような熱さを、少しだって誤魔化すことはできなかった。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ東くん、なにしてるのよ。大丈夫。ほらっ、タオルよこれで早く体を拭いて。あぁあぁ、ズボンびしょびしょじゃない」
「あちち、あちちち。あぁもう、びっくりしたなぁ。大人しくしてたと思ったら、突然跳び上がるんだもの。まぁ、猫にかからなくてよかったけど」
 渡されたタオルで股間の辺りを拭う。時既に遅しという奴だろうか、パンツの中まで侵食してきたお茶は、もはや一枚のタオルではどうしようもないくらいになっていた。これはもう、洗濯しちゃった方がいいのかもしれないね、と櫛田さんがどもりがちに僕に言った。すぐに彼女はちゃぶ台の前から立ち上がると、ちょっと待ってて、今代わりの着替えを持ってくるからと、櫛田さんは僕を置いて居間を出て行った。咄嗟のことというのもあったが、そこまでしてもらわなくても大丈夫なんて、気の利いた言葉は、ちょっと口から出てこなかった。実際、生温かく湿ったズボンは不快だったし、いくら透明人間で周りの人から見えないからって、ズボンを脱いで下半身を丸出しにするというのは、やはり抵抗があった。なにより、櫛田さんには僕の姿が見えているのだ。服を貸してもらえるならここは素直に貸してもらおう。
 にーにーと、僕の足元に仔猫が擦り寄ってきた。誰のせいでこんなことになったのか、まるで分かっていない感じの無邪気な目を向けて、猫は僕を見つめてくる。にーにーと、なにやら物欲しそうに僕に向かって鳴く仔猫。もしかしてあられが欲しいのかと、一個摘んで猫の目の前に落としてやると、戯れるようにして仔猫はあられを突いた。欲しいのは欲しかったらしいが、どうやら食べるつもりではないらしく、仔猫はあられを突いては転がし、転がった先に追いかけていっては、また突いて転がした。食べ物を粗末にするなと人間の子供だったら注意する所だが、猫に言ってもしかたあるまい、僕はそんな仔猫の無邪気な姿を、何も考えずただ不思議に眺めていた。
 ふと、僕の視線に気づいたように仔猫は振り返ると、再びこちらに向かってきた。ちろちろと、その小さな舌で僕の靴下を舐める。だから、そんな所を舐めたら汚いってと、白色の背中をつまみ上げると、先ほどお茶を零された恨みも込めて、僕は仔猫に顔を近づけてこらっと小さく叱りつけた。
 ふと、僕の怒りが伝わったのか、猫がキョトンとした顔をした。猫と僕の視線が重なる。黄色い虹彩の中に黒い正円を浮かばせたその眼の中には、確かに、制服をきた僕の姿が写っていた。にー、にーと、猫が鳴く。暴れん坊できかん坊な仔猫は、ちっとも懲りた様子もなく、可愛らしく笑った。
 そう、僕の顔を見て笑った。僕の表情を見て笑った。僕という存在を認識して、仔猫は悪戯っぽく笑ってみせたのだ。この猫に僕の姿は見えている。
「あったよお父さんのジャージ。ちょっと加齢臭がきついかもしれないけれど、今日はこれ着て帰ってくれる。制服の洗濯は私がちゃんとやって、明日の朝にでも届けるからさ。って、どうしたの東くん、なんか真剣な顔して」
「櫛田さん。もしかして、この猫、僕のことが見えてるんじゃないかな。いや、間違いない、この猫は僕の姿が見えてる。さっきから僕を見てる。だって、さっきから僕に戯れついてくるし、僕の方を向いて笑ってくるんだ」
 なにを言っているのという目を櫛田さんは僕に向けた。そして、何を言っているのと実際に彼女は口にした。それはそうだろう、猫が自分を見ているだなんて、真剣な顔で口にすれば、そういう風に思われても仕方ない。猫と人間の間には、まだ確固としたコミュニケーションの手段が確立されていない。猫が本当に見ているかどうかを証明する手立てなんて、何もありはしないのだ。あるのはただ直感。僕が、そう感じたという、主観でしかない。
「その、君が手に持っている仔猫に、君の姿は見えている。そう思うのね、東くんは。分かった、確かにそうなのかもしれないわね、けど、それがいったい何だって言うの。とても君の姿が元に戻るヒントだとは思えないけど」
「なに言ってるのさ、櫛田さんに次いで僕を見ることができたんだよ。この仔猫と君の共通項を洗い出していけば、何か分かるかもしれないじゃない」
 櫛田さんが見えて、猫も見える。ということは、二人には何か共通する部分がある、ということになりはしないだろうか。もちろん、人間と猫では体の仕組みがまったく違うから、簡単には同じ箇所なんて見つからないだろうが、それでも伝奇小説の内容よりは、考えてみるだけの価値はある。
「なるほどね、確かにそれは考えるだけの価値はあるかもしれない。けど、共通してる箇所か。うぅん、そう言われても、特にこれといって思い当たる節はないんだけれど。東くん、なにかピンとくるものとかあるかしら」
 性格的な所ならば、その妙に悪戯っぽいところとか、人を呑んだような態度とか、色々と言うことができる気がする。けど、おそらく彼女達の似ている部分というのはそういう箇所ではないはずだ。もっと物理的な部分が、身体的な部分が、櫛田さんと猫は似ているんじゃないだろうかと、僕の直感が告げていた。いや、その前にもう一つ確かめなければならないことがある。
 この猫だけが僕を見ることが出きるのか。それとも、猫は皆、僕を見ることができるのか。ちょっと待っててね櫛田さんというと、僕は彼女の手からジャージを奪い取り、制服のズボンを締めているベルトを緩めた。背中の方で、きゃぁと、甲高い声がしたが気にしている時間はない。もたもたしていると日が暮れてしまい、野良猫を探すのが難しくなってしまう。人の家だというのに、かまわず制服を脱ぎ散らかして、僕はジャージに着替えると、先ほど通ってきた玄関へと走った。ぎぃぎぃと板張りの廊下が激しく叫んだ。
 猫、猫、猫はどこに居るんだろう。空からは赤みが消えて、青白い空の向こうに暗黒の夜がゆっくりと忍び寄っていた。点灯し始めた電灯の裏を覗き込み、古ぼけて色褪せてしまった議員ポスターが張られている電柱の下を探す。いない、どこにも猫はいない。街のそこらかしこで鳴き声はするのに、その姿が見つからない。こんな不気味なことはあるだろうか、こんな不気味な生き物はあるだろうか。塀の上にも屋根の上にも、ゴミ置き場のポリバケツの上にも、電柱の下のダンボールの中にも、どこにも猫は居なかった。
 やがて街を抜けて、僕は国道へと抜けた。こんな大きな道に、猫は現れはしない。一旦戻って街の中を探した方が良いだろうと、きびすを返す。そんんな、探し疲れて自然と肩を落としていた僕の耳に、不意に小さな猫の鳴き声が届いた。それは、今にも消え入りそうな小さな小さな音で、車が出す騒音に乱暴に上書きされて聞き取りづらかったが、確かに猫の鳴き声だった。
 どこだ、どこに居るんだと僕が顔を上げると、それは意外にも近い所に居た。横断歩道の真ん中、白線を真っ赤に染め上げて、猫が一匹倒れていた。
 道路を横切ろうとして車に轢かれたのだろう、ミーミーと悲しそうな声で鳴きながら、猫は横たわっている。はみ出した内臓の色は、暗くなりつつあるというのに妙に鮮やかに瞳に写り、グロテスクを通り越し、恐怖さえも置いてきぼりにして、ただ哀れみと悲しみの感情を、僕の中に呼び起こした。
 猫は僕を見た。僕に助けを求めていた。僕しか猫を見ていない。
 僕は猫を見た。猫に助けを求めていた。猫と彼女しか僕を見ていない。
 彼女は僕だけを見た。僕に助けを求めていた。彼女は僕しか見ていない。
 もうこんな悲しいことは終わらせなくっちゃいけない。頭と胸と胃の中でわだかまっていたもやもやとした何かが、体の中を無茶苦茶に駆けずり回って最後の悪あがきをする。僕の中に芽生えた決意を追い出そうと、必死に暴れ回る。常識という暴力、弱気という道徳。たかだか十八年間で僕の中に麻薬のように染み込んだ、文化的でくだらない僕の薄弱な精神が、理不尽な世界に対して内側から溢れ出てくる狂気を抑え込む。くだらない、僕は降らない。お前たちの様な、どうしようもないモノに、捕まってたまるかよ。
 ビィと猫が鳴いた。オルゴールが止まる時の様な鳴き声だった。彼の生命は今まさに止まろうとしている。個という存在を手放して、死体という世界に存在する物体に戻ろうとしてた。背景になろうとしていた。自分を手放そうとしていた。そういう事なのだ、つまり僕はただ死んでいただけなのだ。シックスセンスじゃない、あんな上等な死に方じゃない。僕は自分で死んだのだ、自分で死ぬことを選んだんだ。なんで、そんなの決まっている。いつだって人は世界に絶望して死んでいくんだ。死んだ方がマシだから僕等は死ぬのだ。死んでいれば、誰も僕の大切な部分に触れることはできないのだから。これ以上僕という存在を、不本意に凌辱されることはないのだから。
「東くん、ちょっと、どうしたのよ、いきなり走り出して。透明人間について何か分かったの、だったらもったいぶらないで私に話なさいよ」
「……分かったんじゃない、思いだしたんだよ。トリックという、精巧な砂糖菓子はこの世界にはないんだ。因果なんて、缶詰の高級クッキーはこの世界にはないんだ。本当にくだらないことさ、始りもそして原因も、すべて気まぐれなんだ。僕はただ、眠る前にちょっと呟いただけなんだ。死にたいって。生きてても全然楽しくないから死なせてくれって、願っただけなんだ」
「……なに言ってるの? なにか辛いことでもあったの、だったら私が相談に乗ってあげるわ。変な遠慮なんかしないで、だって、貴方と私は……」
 僕は彼女の秘密を語った。僕が夢だと思っていた秘密を語った。音楽室が暴き出した彼女の秘密を語った。彼女の心を語った。彼女の心を凌辱した。
 瞳から光が消えて、悲壮感が顔を覆う。絶望に満ちた彼女の顔はとても素敵だった。それはきっと、日常の中で真面目な顔に隠され、僕とのやりとの中では小悪魔的な表情で隠された、彼女の本来の面に違いないからだろう。こんなに彼女は泣いているんだ、こんなに彼女は泣いていたんだ。こんな悲しい顔をさせてはいけない。僕は彼女を救わなければいけない。シックスセンスのように上等なお話だ。僕はブルース・ウィリス。完全に死んでしまう前に、彼女を、僕を、人々に気づかれずに死んでいく猫を救わなくてわ。
 櫛田さんに背中を向けて、僕は猫へと歩み寄る。コンクリートさえも真っ赤に染め上げた猫は、その頭にそっと手で触れると眼孔から目玉と脳漿を吐き出して微笑んだ。精一杯にして感謝の笑顔を、猫は僕に見せた。
「何してるの、危ないわよ戻ってきて。そんな何も無い所で、東くんいったい何をしようとしているの。駄目よ、ほら、もうすぐ信号が青になるわ」
 何をしているのか。僕と君を救っているのさ。そう、ここに僕は居る。
「急いで東くん。貴方、今、自分が透明人間になっているってこと、ちゃんと分かっているの。車の運転手に貴方の姿は見えていないのよ、そんな道のど真ん中に立っていたら、轢かれて死んじゃうわよ。お願い、早く戻」
 黄色から赤色に信号が変わるタイミングで突っ込んできた車が、十字路で曲がり、煙を立てて、僕を空中に弾き上げた。人類の走り幅跳びの記録を軽く跳び越して、僕は沿道に吹き飛ばされた。顔面が荒いコンクリートに擦り付けられて、皮膚が抉り取られる、頬が破れ歯茎が剥き出しになり、その歯茎さえもコンクリートの隙間に掠め取られた。鼻は拉げ、磨り減り、鼻水とは違う温かい何かが、万年筆のインクのように溢れ出る。地面に打ち付けられた衝撃で折れ曲がった腕に感覚は無く、小学生が学校の帰り道で摘み取った花の茎のように関節を増やし、外されたストローの包の様に成り果てる。
 沿道をひとしきり滑り終えた僕の体は、ガードレールに引っかかって停止した。そして、停止するとほぼ同時、止めとばかりにうつ伏せで地面に擦れに擦れて裂けた腹から、耐えがたい臭気と共に内臓が飛び出した。血と、胃液と、鼻水と、汗と、尿が混ざって、赤い色をした池が出来上がっていく。それを僕の肌が感じ取っていた。顔面の筋肉は既にズタボロに裁断されて、動くことかなわず、瞼を上げることができない僕は、自分の置かれている惨状を視覚により察知することなど、到底不可能だった。はたして瞼が上がった所で、眼球がまともに機能するのかも怪しい、瞼と一緒に刮ぎ落ちた可能性だって大いに考えられる。やれやれ、前から酷い顔だが、またずいぶんと醜い顔になってしまった。これじゃもう嫁さんを貰うのは絶望的だね。まぁいいさ、取るに足らない僕を、取るに足らない僕の不細工な顔を、気にする奴なんて、この世界には誰もいないのだ。誰一人としていないのだ。
 そうさ、誰も僕の事などどうでも良いのだ。気持ち悪い僕の事など誰も見はしないのだ。浅ましい僕の事など誰も見はしないのだ。魅力の無い僕の事など誰も見もしないのだ。僕はいつだって、人の視界をうろちょろと飛び、人の聴覚をかき乱す羽音を立てる蝿のような存在でしかなかった。仲のいい友達だって一人もいやしない。仲のいいふりをして一緒に居ただけなのさ。皆、心のどこかで僕の事を疎ましがってた。実際にその表情で、言葉で、彼らは僕を遠ざけた。けど、だからってはいそうですかで離れる訳にはいかないじゃない。僕だって死にたくなかったんだ。まっとうに、生きたかったんだ。生きちゃ悪いか、僕のような邪魔っけな人間はひっそりと死んでくれた方が、世界にとっては良いって言うんだろう。畜生、ちくしょう、チクショウ。人権なんて嘘っぱちだ。愛なんて存在しない。人間は独りなんだ。
 そうだろ櫛田さん。なぁ、君も僕と同じで、そう思っていたんだろう。
 そんなに綺麗な顔してるのに、そんなに頭が良いのに、そんなに魅力的なのに、僕達は同じだ。ごめんね、すぐに気づいてあげられなくて。僕はどうやら少年探偵として失格らしい。だから、そろそろ主役の座を降りるよ。
 筋肉の次は意識が断絶されていく。語るべき人物は他にいる。どうやら肉体的にも、僕は死んでしまうらしい。思考から時系列が崩壊し、次に文が語るべき人が狂うどうか背景へとこと溶け込み賢い人である死んだのに望むよ