「砂糖女史は優しく俺を抱きしめる」


 眠れないの、と、背中で声がした。振り返ると心配そうな眼をした雅が、扉の間から俺を眺めていた。部屋の鍵は開け放している。今更、強盗だろうが快楽殺人者だろうが、誰に入ってこられたところで問題はない。それが雅だとしてもだ。彼女が、俺の心を揺さぶることなど、できはしない。
 何しに来たんだ。俺は涙を拭ってから彼女の方に体を向いた。寝間着に着替えた彼女。味噌舐め星人が昔来ていた寝間着だが、そこそこ発育の良い雅には窮屈そうだ。寝間着くらい好きに買えばいいのに、彼女はなぜかその服を愛用していた。あるいは、俺がまだ味噌舐め星人の面影を追っているのを知って、あえて彼女の恰好をしているのかもしれない。いじらしい娘だ。たとえそれで俺の意識が自分に向いたとしても、はたして素直に喜べるのだろうか。自分ではない思い人の面影を、自分に重ねられて、それではたして満足なのだろうか。なんにせよ、誰かに愛されたいと思ったことのない俺に、そんな彼女の心は分かろうはずもない。けれども、誰かに求められたい、誰かを求めたいというその気持ちは。孤独に泣きだしたくなるその心は、俺にもよく分かった。何かに縋りたいのならば、俺に縋ればいい。俺も迷わずお前に縋らせてもらう。そんな関係の末に至った関係。それは雅もよく承知しているはずだ。それ以上の関係など、なれるはずがないのだ。
 そっちへ行って良いですか、と、雅は俺に聞いた。俺は答えなかった。来て欲しくはなかった。いや、来てほしいとは思えなかった。ただ、雅が来たいのならば、俺を求めているのならば、好きにすれば良いと思った。やれやれ、大した自信家だね、プレイボーイくん。自分の不誠実さに反吐が出そうだ。そうして、暫く彼女の出方を待っていると、案の定、雅はおずおずと部屋の中に入ってきた。そして、窓辺に佇む俺に近づくと、その手をゆっくりと俺に絡めた。布越しに雅の体の熱が伝わってくる。優しい、人の温もり。
「何を見ているんですか。こんな、雨の日に、窓なんか開けて」
「雨雲を見ているんだよ。あと、降ってくる雨粒をな」
 嘘、見えるわけがないわ、と、彼女は言った。見えるさ、と、俺はまた窓の外を見上げる。もちろんのことながら、灰色の空に透明な雨粒など溶け込んでしまってどこにも見えはしない。しかしながら、さも、俺にはそれが見えるようなふりをして、俺は雅をからかった。貴方はそうね、いつもそうして私のことを無視するわ。悔しそうに雅は言って、俺の背中にもたれかかった。そうして、俺の言葉などまるで無視して、ひっそりと息をひそめた。
 明日は、店長さんの所に行くのでしょう、早く寝なくては。雅は背中に口を押し当てて言うと、俺の腹を撫でた。見るからに男を悩ます性質を持ちながら、彼女の愛撫は、そういう感情を一切含まない、まるで母の様な手つきであった。母の温もりなど、優しさなど、たいして知らぬ俺が言うのもおかしな話だが。彼女に撫でられると、不思議と、そういう気持ちは沸いてこないのだ。それが心地よくもあれば、時に疎ましい時もある。今日の俺には、明日と言う日を待ちわびて、色めき立つ俺には、今日の彼女の手つきは優しく、そしていつまでもこうしていたいほどに、心地よく感じられた。