「僕の甘味の少ない幸せな青春その十」


 また家から飛び出したくなるのを我慢して、僕は彼女たちに背を向けた。お兄ちゃん、と、観鈴が心配そうに僕に声をかけたので、大丈夫だ、別に変な事はしないよと、俺は振り返らずに言った。とりあえず、そうだ、自分の部屋に入って寝なおそう。もう一度寝れば、この悪夢のような現実も、少しはマシになっているかもしれない。もう考えるのも嫌になった俺は、そんなことを思いながら、自分の部屋の扉を開けた。そして、詩瑠のベッドと違って臭い匂いのするベッドに飛び込むと、布団をかぶって目を閉じた。
 お兄さん、お兄さん、と、耳元で声がする気がした。心なしか、肩が揺れている気がした。いや、気のせいなんかじゃない。耳にかかると息が、その証拠だ。やれやれまいった、部屋の扉に鍵をかけるのを忘れていたよ。
「何の用だよ。お前、僕の部屋まで追いかけてきやがって」
「だって、だって、その、お兄さん、怒っているようでしたから。お兄さんが怒ったままだと、嫌だなと、そう思って。仲直り、しましょうよ、ね?」
 詩瑠の偽物は俺に手を差し出す。握手をして仲直りね、そんなのは政治の世界くらいしか通じない話だ。そんな簡単にお前を許せるなら、俺は昨日の夜、ネットカフェに泊まらなくてもよかったよ。ついでにこの世界も、もっとのほんとして過ごしやすいだろう。明智光秀本能寺の変を起こさなかっただろうし、アドルフはずっと絵ばかり書いて居れただろうさ。
 しかしながら、面倒くささが怒りを通り越した。もう、この女と一緒に居るのは面倒だ。彼女の頭の悪い口調に心を掻き乱されるのもうんざりだったし、そのしつこい性格にも辟易していた。とにかく、静かに眠りたいのだ。
 僕は彼女の手を握り返した。やはりそれは詩瑠の手とは違って、温かく柔らかい手だった。こんな手をして、つい先日まで病気と闘っていたなんてことはありえないだろう。もう、思うのもうんざりだ。いいさ、お前が、そうだって言うんならそういうことにしといてやるよ。だから、もう、勘弁してくれ。僕は静かに、詩瑠の死を悼んでやりたいんだ。かき回してくれるな。
 僕と握手をした詩瑠の偽物は、満足そうに笑うと僕に抱き着いてきた。仲直りできて嬉しいです、嬉しいですと、子供みたいに一しきりはしゃぐ彼女と、もしこんな出会い方をしていなければ、少しくらいは好きになれたかもしれないと、僕は少しだけ思った。まぁ、いいさ、人の縁なんてそんなものだ。いいから、少し寝かせてくれ、と、僕は彼女に言うと、強引に彼女の華奢な手から逃れて、臭く湿った布団の中に潜り込んだのだった。
「お兄さん、どうしたんですか、もしかしておつかれなんですか」
「あぁ、誰かさんのおかげで、ろくな場所で眠れなかったんだ。いいから暫く眠らせてくれないか。仲直りしたんだから、もう俺に用もないだろう」
「けどけど、大丈夫ですか。マッサージ、してあげましょうか。私、そういうの得意ですよ。してあげますよ、きっと、少しくらい楽になりますよ」
 良いから出てってくれよ、と、僕は怒鳴っていた。あれだけ笑顔だった彼女の顔が、また、今にも泣きだしそうなほど悲しみに満ち溢れていた。あぁもう、また俺のせいなのかい。俺が悪いって言いたいのかい、お前は。