「僕の甘味の少ない幸せな青春その九」


「お姉ちゃんはお姉ちゃんなのです。何を言っているのですか?」
 本当におかしくなってしまったのか、という顔だ。もっとも、僕もまたそんな顔を彼女に向けているのだ。お互い様という奴かもしれない。
「お姉ちゃんじゃないだろう。お前、俺達の詩瑠がこんなおマヌケ野郎だって言うのか。自分の飼い犬に吼えかけられて、尻餅着く様なそんな女だって言うのか。ふざけんな。詩瑠はこんな頭の悪い女じゃないだろう。詩瑠は、それは賢くて、それでいて優しくて思慮深い、そんな女じゃないかよ」
 喋り方からしてこの女は頭が悪い。不必要に言葉を繰り返して、それでいて放つ言葉も感情的だ。少しの思慮も彼女の言葉からは感じ取れない。
 そして、何かあれば無様に泣き叫んで助けを求める。まるで子供だ。
 俺の知っている詩瑠ならば、そんな安っぽく泣いたりはしない。自分の体の不調を家族の誰にも悟られぬように、最後の最後、倒れるまで黙り続けた詩瑠が、そんな簡単に周りに助けを求めるものだろうか。
 しない。本当に、この女が詩瑠だというのなら、こんな風に簡単に嘆いたりはしない。そんな安っぽい女ではないのだ、俺の可愛そうな妹は。
「ミーちゃん、ミーちゃん。助かりました。この犬が、私に向かって突然吼えてきたのです。怖い犬です、人間に吠えかかるなんて駄目な犬です」
「お姉ちゃんまで。お姉ちゃん、病院が長くってボケちゃったですか。あぁけど、入院している間に、一回りにコロ太さんも大きくなりましたから。分からないのも無理ないかもなのです。お姉ちゃん、この犬はコロ太さんなのですよ。お姉ちゃんが拾ってきた、大切に育ててた、コロ太さんなのです」
 観鈴にすがりつくいた詩瑠の偽物は、知りません、知りません、と、コロ太の方を向いて首を激しく横に振った。ほら、これが赤の他人の証拠だというのに。あんなに大切に育てていたコロ太を、知らないと言う様なことがあるだろうか。知らないなんてことがあるだろうか。ある訳がない。
 おかしいと思わないのか、変だと感じないのか。容姿からして、違っているだろう。たった一日で白髪が黒髪に代わるというのか。まぁ、髪は染めたにしても肌がおかしい。あんなに荒れ果て、こけていた顔が、一日でこんな健康な状態に戻るものか。こちらは化粧でも、どうしようもないだろう。
「違う、違う、違う。こんなのは、詩瑠なんかじゃない。どうして皆、こんな奴を詩瑠だというんだ。俺は認めないぞ、こんなのは俺の詩瑠じゃない。俺の詩瑠は、妹は、病気に最後の最後まで抗って、生きようとして、そうして死んだんだ。こんな、能天気な面で生きている奴じゃないんだ」
「お兄ちゃん、落ち着いてくださいなのです。お姉ちゃんは病気が治ったのですよ。死んでなんかいないのです。能天気なのは、ちょっとお薬のせいで頭がはっきりしていないだけなのです。少ししたら、また元の賢いお姉ちゃんに戻ってくれるのです。だから、お兄ちゃん落ち着いてください」
 観鈴と、観鈴にすがりついている詩瑠の偽物の眼がこちらを見ている。
 それは目に入る物を憐れむような瞳だった。いったい何を憐れむって言うんだ。憐れなのはお前たちの方だろうが。ちくしょう、なんだってんだ。