「僕の甘味の少ない幸せな青春その八」


 父さんと母さんの寝室の扉が開いた。中から出てきたのは、俺の本物の妹である観鈴だった。ピンク色のパジャマに、はねあがった髪の毛。眠たげな愛らしい眼をこちらに向け、彼女は朝から五月蠅く吼える忠犬に尋ねた。
観鈴、お前帰っていたのか」
「お兄ちゃんおはようございます、なのです。昨日の夜遅くに帰って来たのです。お母さんとお父さんから、お兄ちゃんの様子がおかしいから、お休みがてら様子を見に行って来いって、言われたのです」
 お兄ちゃん、別にどこもおかしくないですよね。そういって、観鈴は僕の顔を真っ直ぐに向けると、不思議そうな眼差しを僕に浴びせかけてきた。そうさ、別にどこもおかしくなんかないさ。おかしいのは、父さんや母さんの方なのだから。この通り、僕は元気だし、少しもおかしい所などない。
「よかったのです。安心したのです。昨日の夜、お姉ちゃんさんの部屋で寝ていたのを見た時には、お兄ちゃんが実の妹に欲情しちゃうような、架空と現実をはき違えた変態さんになったかと、ちょっとびっくりしたのです」
「お前、どこで覚えてきたんだよ、そんな言葉。いや、ちょっと待て、昨日の夜と言ったな。お前、昨日の夜、この部屋の中に入ったのか」
「入ったのです。そしたら、コロ太さんが起きてきて。なんだか久しぶりにコロ太さんとは会うので、ちょっと遊んで、そのまま一緒に寝たのです」
 なるほど、コロ太が俺の隣から居なくなった謎は分かった。やはりびびりのこの女に、コロ太をどうこうする度胸はなかったということだ。大方、観鈴がコロ太を父さんと母さんの寝室に招き入れた後、この女は詩瑠の部屋に入って来たに違いない。なんだ、分かればどうということはないな。
「ところで、お兄ちゃん。お姉ちゃんさんは何をしてるのですか?」
「何をしてるって、コロ太に吼えられて泣きべそかいてんだよ」
 待て、今、なんだって、と、頭の中に言葉が響く。今、詩瑠はこの俺の目の前で尻餅をついている男に向かって、なんと言った。お姉ちゃんさんと、言わなかったか。この偽物の詩瑠に向かって、お姉ちゃんさん、と。
「駄目ですよコロ太さん。お姉ちゃんさんの顔を忘れちゃったんですか。そんなのは駄目駄目の恩知らずさんですよ。ほらっ、吼えちゃ駄目」
 今の今まで、偽物の詩瑠に向かって吼えていたコロ太が、観鈴に怒られて急に黙った。おい、ちょっと待てコロ太、なんだそれは。違うだろう。お前の勘違いなんかじゃないだろう、その女は詩瑠なんかじゃないじゃないか。
「良い子ですね。まぁ、コロ太さんが吼えちゃうのも無理もないです。お姉ちゃんさんは、随分長い事入院されてましたからね。顔を忘れちゃうのも、ちょっとしょうがないかもなのです。けど、コロ太さん、喜んでください。お姉ちゃんさは今日からこの家で暮らせるようになったのですよ。もう、お病気の方はすっかりとよくなって、完治して、元気になったのです」
 なんだ、それ。なんなんだよそれ。ふざけるな。ふざけるなよ。
「ちょっと待て、観鈴、お前もか、お前も、この女が詩瑠だって言うのか」
 何を言っているんですかと、本日二度目の困惑の瞳が俺を射抜いた。