「僕の甘味の少ない幸せな青春その七」


 そう言えばコロ太の奴は何処にいったのだろうか。あの女と入れ替わってベッドの上からは居なくなっていたが。俺は少しばかり瞼の裏に残った眠気を擦って追い出すと、目を凝らして部屋を見渡す。白く大きな犬の姿は、部屋の中には見当たらない。勝手に部屋を出た。そんな器用な事ができたならば、彼の食事の世話に俺が駆り出されることもない。すると、先ほどの女に追い出されたのか。まさかな、そんな度胸が彼女にあるようには見えない。きっと、コロ太に吼えかけられたら、尻餅をついて怯えるに違いない。
 バゥ、と、犬の吠える声がした。詩瑠の偽物が出て行った、扉の向こう側からだ。ついで、きぃやぁ、と女の悲鳴もだ。ざまぁみろ、人を小ばかにするからだ。僕は嬉々とした気分で、詩瑠の部屋の扉を開けると廊下の様子を伺った。案の定、コロ太と詩瑠の偽物はそこにいて、コロ太は唸って牙を剥き、彼女は尻餅をつき涙を流しながら、面と向かって相対していた。
 コロ太が吠える。大人しい彼にしては、荒っぽい鳴き声だった。彼もまた心ない偽物の詩瑠の登場に怒っているのか。それとも、彼が部屋の中から居なくなったことに、彼女が何かしら関係でもしているのか。いまにも噛みつかんとばかりに、コロ太は野犬の如く唸っては詩瑠の偽物を威嚇した。そんな彼の威嚇に、大いに狼狽えて嫌だ嫌だと首を振る女。とてもいい歳をした女の反応とは思えない。体格はそれなりに大きいし、威嚇もしているが、犬コロをこんなに怖がるだなんて。もしかして、犬に嫌な思い出もあるのか。
 ふと、女がこちらを向いた。助けてください、と、二回、大きな声で叫んだ。嫌なこった、自分でなんとかしろと、俺が冷たく突き放せば、彼女は酷いです酷いですと、涙目で僕を謗ってきた。五月蠅い、酷いのはどっちだ。人の妹の死を散々にからかってくれて。俺もコロ太も傷ついたのだ。
「お願いですお兄さん、この怖い犬をなんとかしてください。わんわんわんわん吼えるこの犬をなんとかしてください。怖いです、怖いです。きっと私の事を食べようとしています。いやっ、私なんて食べても美味しくないですよ。お兄さん、お願いですから、この犬をどこかにやってください」
「だから嫌なこった、だ。その犬はな、お前とそれはそれは仲が良かったんだよ。それで、死んだと思ったお前が帰ってきて、とっても喜んでいるんだろう。良いじゃないか、少しくらい手でも齧らせてやれ。それはもう、昔のお前はその犬を、眼の中に入れたって痛くないほど溺愛してたんだから」
 知りません、知りません、そんなこと。と、すぐに女は叫んだ。
 知らないだって。あんなに愛していたコロ太のことを、あんなに大切にしていたコロ太のことを、知らないだなんて。絶対に、詩瑠だったらそんなことは言わない。やっぱり、この女は詩瑠の偽物に間違いない。
「どうだ、お前が詩瑠だというんなら、その犬に迫られても平気な筈だぜ。もう観念したらどうだ。そうしたら、お前の事助けてやってもいいぜ」
 涙で潤んだ瞳を彼女は僕の方に向ける。人でなしと謗るような目だった。そして、どうして信じてくれないのという、悲しみを含んだ目だった。
「もうっ、バウバウバウって、なにしてるんですかコロ太さん。なのです」