「僕の甘味の少ない幸せな青春その四」


 麦茶を飲み終えた僕は階段を上って自分の部屋へと向かった。そのまま僕はネットカフェでは充分に満たせなかった睡眠欲をなんとかしようと、自分の部屋の扉を開けたが、ふと、観鈴の部屋から物音が聞こえて、大切なことを思い出した。そうだ、コロ太の世話をすっかりと忘れていた。
 僕がネットカフェに泊まったことで、コロ太はご飯を食べられなかったに違いない。お腹を空かせて、今頃は床の上で腹を出して寝ているだろう。僕がくだらないことをしたせいで、彼にはとんだ迷惑をかけてしまった。急いで僕は一階に戻ると、キッチンに舞い戻って冷蔵庫の横に転がっていた餌を入れる皿を拾った。そして、炊飯ジャーの横に置かれている、ドッグフードの袋から、皿一杯分の乾燥ドッグフードを持って二階へと戻った。
 すまない、コロ太、お腹が空いただろう。詩瑠の部屋の扉を勢いよく開け放つと、僕は中に入ってコロ太を探した。彼は死んでしまった詩瑠のベッドの上で寝転がっていたが、僕を見つけると、ゆっくりと起き上がって近寄ってきた。なぜだろうか、歩く姿に今一つ元気が感じられない気がする。人間の年齢にしてみれば、中年くらいのコロ太だ。散歩も、最近は昔ほどはしゃぎまわるようなことはなくなったが、それでも、こんなやつれた様な足取りで、どうしたのだろうか。病気。まさか、一昨日までは元気にしていた。空腹でこんなにやつれるものなのか。ちょっと様子がおかしいぞ。
 ためしに、ドッグフードをコロ太の前に差し出してみた。しかし彼はドッグフードを少しも食べようとはしなかった。それどころか、匂いを嗅ぐどころか、見向きさえしなかったのだ。お腹が空いている訳ではないのか。
 まさかとは思うが。コロ太、お前という奴は、詩瑠が居なくなったのを、悲しんでいるっていうのか。主人の死が分かっているというのか。
 悲しい目を詩瑠の飼い犬は僕に向けた。何かを問いかけるような、そんな視線だった。そうだ、お前と僕の大切な詩瑠は死んでしまったのだ。それをいったい、この忠犬にどうやって知らせてやればいいのか。俺には分からなくて、その茶色い毛並みをゆっくりと優しく撫でてやることしかできなかった。賢いコロ太は、それで全てを分かってくれたのか、僕の頬を慰めるように何度も舐めた。ありがとう、もういいよ、そういっても、彼は僕の頬を舐めるのを止めはしなかった。もういってと、無理矢理に彼を引き離すと、初めて僕は自分が泣いていたという事実に気がついた。
 とめどなく流れる涙。頬を濡らすそれを、コロ太は舐めとっていたのだ。
 おいで、今日は俺が一緒に寝てやろう。愛するものを失った者同士、慰め合おうじゃないか。僕はコロ太と一緒になって、詩瑠の布団の上に寝転がった。詩瑠の奴が病院に行ってしまって随分と立つが、なぜだろう、彼女の香りがするような気がした。この香りもやがては消えて、この布団もいずれはなくなる。そうして僕達の中から、詩瑠という掛け替えのない存在が、どうでもいい存在に代わってしまう日が、いつかはやってくるのだろうか。
 それはとても悲しい事だな、なぁ、コロ太。コロ太は何も言わず、また、僕の頬を舐めた。それっきり、僕は何も言わず、静かに目を閉じた。