「僕の甘味の少ない幸せな青春その三」


 その日の夜、僕は家に帰らなかった。帰れなかったというのが正しいかもしれない。鼻の折れた父も、激昂した母も、回復した妹の様な奴も、決して居やしないだろう、僕の家に、入っていける気がしなかった。家族から弾き出された、そんな感情が僕を家へと帰らせようとさせなかった。
 結局、僕はネットカフェで一晩を明かした。狭い狭いリクライニングシートのネットカフェの一室で、僕は声を殺して泣いた。泣き疲れるとドリンクバーでオレンジジュースを飲んで、瞳が落ち着いた頃合いでまた泣いた。泣くことで何かが綺麗に解決するだなんて、誰かがなんとかしてくれるだなんて、そんな餓鬼みたいなことは思ってはいない。泣くことに何か意味があるとも思っていない。ただ泣きたいから泣いた。それだけだった。意味がないとは思っても、涙を流すことで、自分の中で整理される物があったのかもしれない。何も考えず寝れるように、泣いて疲れたかったのかもしれない。携帯電話で一時になったのを確認したのを最後に、僕の意識は途切れた。
 最近のネットカフェは親切な物で、最も安いプランでサービス料金の清算をしてくれるのだという。ナイトパック九時間セットと一時間の延長で、しめて二千円の料金を、びっくりするくらい茶色い髪をしたバイトの女の子に払うと、僕は明るいネットカフェの外に出た。まったく車の止まっていない駐車場を眺めて、このお店は大丈夫なのだろうか、なんて、どうでもいい心配をする。それよりも、これからどうやって生きて行くのかを、真剣に僕は考えるべきだ。このまま、家を出て一人で暮らすか。それには、手持ちのお金ではいささか不安である。バイトもろくにしていないし、貯金だってたいした額は持っていない。そもそも、預金通帳もカードも、母の手の中だ。
 どうやっても、一人では生きて行けないな。財布の中の小銭を数えて、改めて自分の非力さを実感した僕は、大人しく家に帰ることにした。もう帰れないなんて感情はすっかりと、僕の頭の中から消え去っていて、ただ、あのふざけた人間たちと、これからどうやって接していくか、あるいはどうやってあのふざけた環境から脱出するか、なんて考えが代わりに頭の中でざわめいていた。とりあえず、何かバイトをしよう。親には黙って、母さんなんかに知られた日には、きっと五月蠅く口出されて、やる気を削がれてしまうから。そして、ある程度一人で暮らしていける金ができたならば、何も言わずにあの家を去ろう。それで終わりだ。あのウザったい母とも、何を考えているのか分からない父とも、そして、そして、あのふざけた妹もどきとも。
 家の鍵を開ける。玄関には誰の靴もなかった。心配して、家に様子を見にきもしないのだ。とっくの昔に、僕達家族は壊れていたのかもしれない。
 廊下を抜けてリビングに向かう。キッチンに入ると冷蔵庫の扉を開けて、中から水だしの麦茶を取り出した。誰も来はしないのだ、直接口を付けて飲んでも構わないだろう。僕は容器の注ぎ口を開くと、顔をキッチンの天井に向けると、苦い苦いその麦茶を煽った。喉にひっかかるくらい苦い。これはどうやらパックを長く入れ過ぎたみたいだな。とても飲めたものじゃない。僕は口を離すと、容器の蓋を取って麦茶とパックを三角コーナーに流した。