「味噌舐め星人の賃借」


 煙草を三本吸って、コーヒーを二杯飲んだ。ジャンプは半分も読まずに棚に戻して、俺は勘定を済ませると店を出た。また来てくださいなんて気の利いた言葉はかけてこない。それはそうだろう、なにせ、コーヒー二杯で三時間は粘ったのだから。当初は一時間程度のつもりだったが、B太のCDの衝撃は、俺を暫く再起不能にしてくれた。店主も店主だ、いつまでもB太のCDを流し続けるのが悪い。感傷的になって、ついつい居座ってしまった。
 雨はすっかりとあがっていたが、空は白い雲に覆われていた。いつまた降りだすかわからない空の様子を伺いながら、俺は駅前のレコード屋に向かった。目的は、もちろんB太のCDだった。テレビに出ているくらいなのだから、きっと店頭にもそれなりの数が並んでいるだろう、と。
 しかし俺の目算は見事に外れた。B太のCDは店の何処にも置かれていなかった。かつてB太が世話になっているレコード会社の社長に聞かされた、ジャズは人気がないという言葉がまざまざと心の中で蘇る。あきらめきれなくて、あの、すみません、能美健太のCDはありませんかと、俺は近くの棚で商品の陳列を行っていた、アルバイトらしき眼鏡の店員に声をかけた。すると、あぁ、能美さんね、昨日まではあったんですけどね、ほら、今、とても人気でしょう。売り切れて、今は入荷待ちなんですよと、愛想のいい笑顔で俺に語った。また、目算が外れた。しかし、人気があるのだから、これは嬉しい誤算という奴だろう。まったく、B太の奴め。夜ごと駅前でギターを弾いては無視されていたくせに、今じゃ大人気か。わからん物だな。
 予約しますかと尋ねられたが断った。こうなってしまうと、意地でもどこかでB太のCDを手に入れてやろう、そういう気分になっていたのだ。
 Cdを求めて街を彷徨うこと半日。途中雨宿りをしたのもあったが、随分と諦めるまでに時間がかかった。人気という奴は一度火がついてしまうとすさまじい物だ。つい数年前まで、金を払ってでも聞きたくないと思われていたB太の曲を求めて、日本中の人々が躍起になっているのだから。
 手持無沙汰、無駄に疲れたなと思って玄関の戸を開けば、雅がおかえりなさいと俺に声をかけた。出かける所だったのか、彼女の白い足の先は赤いハイヒールによって覆われていた。清楚な彼女には下品な靴だよ。まぁ、俺に散々嬲られている彼女が、清楚かといわれるとそんなことはないだろうが。「何処へ行くんだ? 今日はパートの日じゃなかっただろう」
「パートです。急に、同僚の人が、仕事を休んでしまって、呼ばれました」
 彼女が俺に嘘を吐くことはないだろう。吐くメリットが何もない。男と会う様な度胸もなければ、逃げ出すあてだってない。戻ってくるだろう、そう思って、俺は彼女に、そうかと、そっけない声をかけた。気を付けて行って来いよなんて、優しい言葉でもかけてやろうかと思った時には、彼女は行ってきますと玄関の扉の向こうに消えてしまっていた。鍵は持って出かけただろう。玄関の扉を閉め、靴を脱ぎ捨てて俺はリビングへと向かうと、電気もつけずにソファーに沈み込んで、少しの間だけ目を瞑った。
 静かだ。この家は、一人だとこんなにも静かなのだな。