「味噌舐め星人の一服」


 特にすることはなかった。本日のコーヒーとペペロンチーノを頼むと、俺は入り口近くの本棚に向かって少年ジャンプを手に取り、再び席に戻る。このまま一時間くらいはここで潰そうか。普通に漫画を読んでも、それくらいの時間は消化できるだろう。そう言えば、先週のジャンプを読み損ねていたのだった。10週分のバックナンバーもあることだし、少しゆっくりさせていただこうかな。早速出てきたコーヒーを一口啜り、その味がなかなか飲めたものであることを確認すると、俺はジャンプの表紙をめくった。
 店内にテレビはなく、四隅に取り付けられた大きなスピーカーから、心地よいジャズミュージックが流れていた。あまり音楽に造詣の深くない俺だったが、心地よく食事ができるのだから、きっといい音楽なのだろう。最初は有線放送なのかと思っていたが、マスターが自分で曲はセレクトしていたらしい。突然ミュージックが途切れたと思うと、カウンターの奥でラジカセにCDをセットしているのを目撃した。良いセンスをしている。もし、俺に定期的な収入があったのならば、毎日とはいかなくても毎週通うだろう。
 先ほどまではサックスの音がメインのジャズだったが、打って変わって、今度はギターの音がメインに変わった。アコースティックギターかと思いきや、音はエレキギターの様だった。何故そんなことがわかるのかというと、下手くそなエレキギターを、散々付き合いで聞かされてきたからに他ならない。いや、その筋の社長に言わせると、彼は逸材で、下手くそなのはエレキギターの才能ではなく、歌の方だったらしいが。B太の奴、元気だろうか。
 ふと、いつだったか聴いた曲に変わった。いつぞや、テレビから流れてきたピアノとギターのセッションだ。覚えていた。間違いない、今、この店内に流れている曲こそ、あの日、俺がテレビで見たキザな男と中国娘の歌だ。
 おい、この曲、この曲はなんて言うんだ。いや、誰の歌なんだ。考えるよりも早く、俺はマスターに話しかけていた。それまで、まったく周りの事などわれ関せずで、漫画の世界に入り込んでいた俺が、突然話しかけてきたので、老いたマスターは少なからず驚いた様子だった。その髭をゆっくりと擦り上げて、少し考える風に俺を見ると、彼はコーヒーを入れる作業を中断しカウンターの奥に戻り、一枚のCDケースを持って俺の前へと帰って来た。
 これだよ、このCDに入っている曲だ。私も詳しいことは知らんが、ここ数年で出た邦楽のジャズミュージックとしては、最も有名な作品で、最も売れている物だよ。それだけは確かだ。やっている人も確かまだ若かったな。
 Cdケースはモノクロの鳥のイラストで装丁されていて、どんな人物がこのCDを作ったのか、ケースから得られる情報は少なかった。曲名が羅列されたケース裏からも、また、しかりだ。ケースを開いて、中から薄っぺらい歌詞カードを取り出して、俺は初めて、この歌を演奏していたのが、俺の古い友人であることに気が付いた。いや、薄々は気が付いていたのだろう。だからこそ、あの時、俺はこの音楽を聴いて、気にしたのだと思う。
 曲のタイトルは、失われた時間の中でという物だった。それがはたして何を意図して作られた曲なのか、俺には少しだって分からなかった。