「味噌舐め星人の停滞」


 俺がスドーの爺さんに拉致されてからはや三日が経った。折られた鼻の骨を、物々しくテーピングされて帰ってきた俺を、何があったのかと雅はとても心配していたが、俺は彼女に何も語りはしなかった。語った所で、それで俺の鼻が治る訳でもなかったし、彼女にスドー老人と俺が接触したことを語るのは、彼女に負い目を作ってしまう気がしたからだ。自分のせいで、俺がこんな状態になってしまった、なんて風に思われたら、たまったものもではない。雅は思い込みの激しい女だ、きっと鬱陶しく俺に謝り続けるだろう。
 そんな訳で、微妙に雅と距離を置いたまま、俺は三日間を過ごした。その内に、鼻の痛みは引いていき、鼻をテーピングしたままの生活というのにも馴れてきた。味噌汁やご飯を食べると、多少鼻先が湿気るのは気にはなったが、差して生活に戸惑う様なこともなくなってきた。ただまぁ、不用意に鼻が啜れないというのは、慢性鼻炎持ちの身としては多少辛かったが。
 鼻を怪我して帰って来た日から、朝食は雅が作り始めた。といっても、彼女の料理の腕前は酷い物で、味噌汁とご飯しか作れなかったが、それでも、鼻が利かなくなった俺よりは、幾分かマシな味噌汁は作れるようだった。形が酷く不揃いな、味噌汁のジャガイモを掬いながら、俺は雅に改まって感謝の言葉を述べた。体の調子の悪い時には、精神面の調子も狂う。柄でもないなとは思っていた、別に彼女が居なくてもなんとかなるとも思った。それでも、彼女が居てくれるおかげで、少しくらいは、この鼻を折られた生活も楽になっているのだと思う。彼女が居なければ鼻を折られもしなかったが。
 俺に感謝の言葉などかけられた事がない彼女は、それはもう、俺の言葉に面食らっていた。信じられないという顔で、もう一度言ってくれますかと、彼女がおずおずと訊いてきた来たので、俺はありがとうなと、ぶっきらぼうな台詞を彼女に浴びせた。もう一回、と、今度は確信犯的に言ってきたのには流石に腹が立って、俺は持っていた味噌汁を飲み干すと、そのお椀を彼女に向かって投げつけた。お椀は彼女の額に直撃して、ちゃぶ台の上へと落下した。調子に乗るな、と、言って、俺は額を抑える彼女を一瞥すると台所に向かう。水を張った桶の中にお茶碗と箸をくぐらせると、それじゃぁ出かけてくるからと、俺はリビングを後にした。はい、と、なんだか浮ついた声で返事をした雅が妙に腹立たしくて、俺は戻って殴ってやりたくなった。
 空を見上げれば曇天。あと一時間もしない内に雨が降ってきそうな、そんな具合だった。心なしか俺の周りの空気が湿っているように感じられる。雅と顔を突き合わしているのが苦痛で、飛び出してきたのは良いけれども、これは参ったな。今更、傘を取りに家まで戻るのも面倒だ。かといって、傘を持ってまで散歩するほど、俺は風流を愛する人間ではない。適当な所で、雨宿りでもするか。なに、梅雨でもないのだ、そんなに長く降ることはないだろう。俺は住宅街を離れて、駅前の商店街へとやって来ると、昔、一度だけ来たことのある喫茶店に入った。いらっしゃい、と、白髪のマスターが、こちらに目もくれず言う。若いウェイトレスも来なかったので、俺は適当に席につくと、早速、ポケットから煙草を取り出して、一服した。