「須堂老人はロクデナシを打つ」


 止めろ、と、爺さんが言った。決して流暢ではない、片言の日本語で。途端に首にかかっていた力が解放されて、喉に新鮮な空気が流れ込む。爺さんの命令には忠実なんだな。つまらない奴だ。ちょっと言われたくらいですぐに手をひっこめるくらいなら、最初から手出しなんてしなければいいのに。
 大げさな音を立てて空気を吸い込むと、俺はホームレス男を睨み返した。おい、どうしてくれるんだと、咎めるような視線を彼に送れば、悔しそうに顔を歪める。そのまま、立ち上がって一発位男を殴ってやろうかという俺の気勢を削ぐように、老人の手が俺の方に乗った。あん、止めろよ、アンタのようなヨボに、止められるほど俺も耄碌してはいないよ。無視して立ち上がろうと足に力を込めた時、ふくらはぎに激痛を感じて俺は唸った。
 なんだ、どうなっているんだ、と、後ろを振り返れば、爺さんが俺のふくらはぎを、黒塗りのステッキで押さえていた。いや、差している、という表現の方が適切かもしれない。しかも、力を込めて、明確な悪意を持って。
「調子に乗るのもいい加減にしろ。だ、そうですぜ。お兄さん、いけませんがな、スードさんを怒らせたら。気が長い人ほど怒らせると怖いって、知らないんでやんすか。我慢しに我慢した怒りが決壊した時ほど、怖い物はないんすよ。ほら、長年連れ添った夫婦の、定年退職後の離婚みたいに」
 訳の分からないたとえをどうも。しかし、足の痛みの方が、よっぽどその恐ろしさを伝えてくれるよ。なんという力だ。力が一点集中しているからだろうか、とても老人の力とは思えない。自分から下手人に手をかけるとは、とんだ暴れん坊ジジイじゃないか。水戸の黄門様だって、部下が戦っている時に不必要に出しゃばりはしないってのに、大人しくしていろよ、な。
「クズだクズだとは思っていたが、ここまでのクズとは思わなかった。これならまだ、孫に嫁がせた方が幸せだ。お前が死ねば、あの娘もあきらめて、私のいう事を聞くだろうかね。ですって、きゃぁっ、もうっ、お兄さんピンチピンチでやんすね。このままさっくり死んじゃいますか。先輩もお兄さん離れしたことだし、そろそろ居なくなっても誰も悲しまないんじゃ」
「あぁそうだろうね。誰も悲しまんだろうよ。俺は別にそれでも構わんよ。これ以上俺が生きることに意味なんてなさそうだからな。アンタの様な偏屈爺に殺されるのは少し癪だが、そんな終わり方も俺らしくて悪かないよ」
 爺さんが杖を振り上げる。茶色く濁った彼の視線を凝視すれば、彼もまた俺の瞳の中を覗き込んでいるのが分かった。お互いの目の中を覗き込み、分かったのは、言いようのない虚無感。俺とこの爺さんは一生分かり合う事はできないという諦観。あるいは、それだけが分かり合えたのかもしれない。
「なぜ、そんな目をする。なぜ、夢を見ない。お前は、まだ、若い」
 爺が喋った。しわがれている声の中に寂しさのある声だった。夢を失くした者だけが持つことを許される、何よりも寂しく優しい声だった。この世でもし俺を殺してくれと頼むならこいつしか居ないだろう。
 そして爺は杖を降ろした。そして、俺に背中を向けると、もう良いと、ばかりに手を振った。小さく、それも良いかもしれないと、呟いて。