「味噌舐め星人の止血」


 高速に乗って一時間とホームレス男は言ったが、それは間違いだった。しかも二時間も違っていた。高速が混んでいたわけでも、途中で誰かがパーキングエリアにトイレに寄った訳でもない。事故を起こす様なへまな運転手ということもなく、道中はすこぶる快適な旅だった。つまりだ、ホームレス男が俺に語った時間が間違っていたということだ。三時間も高速道路を走っていれば、必然、街並みも見覚えもない物に代わる。聞いたことのない名前をしたインターチェンジで降りれば、また、もう少しだとホームレス男が言った。一時間前にもそのもう少しだを聞かされた俺は、どうせ気やすめだろうと話半分に頷いて、鼻の穴に詰められたティッシュペーパーを抜いた。折られた鼻の血は止まったが、まだ、どこか具合の悪さを感じる。これはきっちりと治療費を貰わないとな。自業自得だとは言わせねえ。そっちだって、俺に嫌味を言われても仕方ない程度の子とはやっているのだから。
 車は西日を浴びてどんどんと山へ向かって走っていく。日が暮れるにつれて人気はなくなり、ついには、蛇行の多い山道へと差し掛かる。このまま、山の頂上で捨てられるか、それともダムにでも沈められるのか。滝に突き落とされるだなんてぞっとしないなと、思わず体が震えた。心配しなくても、そんな目には合わせやしないよ。俺の鼻をへし折った男が、優しい言葉を俺にかけた。世の中に、これほどほっとしない慰めの言葉もないだろう。
 やがて人に忘れられたような林道にワゴン車は入った。ソファーが盛大に揺れて、頭を何度か天井にぶつけた。思わず、また鼻頭が熱くなるのを感じずには居られない。そんな山道を十分も走っただろうか。急に道路が舗装されて、車内の揺れが収まった。林道はいつの間にか整備されて、開けた土地が見えてくる。地平線とまではいかないが、随分と広い。その広い土地の真ん中には、まるで推理物にでも出てきそうな、西洋風の館が立っていた。
「あそこだ。ほれ、中央に見える、大きな屋敷。あそこが、俺たちの雇い主の住処さ。元はここも別荘で家は都内にあったんだが、歳もあって隠居なされてな。それからは別荘の中でも一番住み心地のよかったこちらで、悠々自適の花鳥風月優雅な生活という訳よ。かれこれ十年になるかな。今でも、用事があれば外に出て行かれることもあるが、大概のことは、俺たちの様な小間使いにやらせて、滅多に外に出ることはねえのさ」
 なるほど、こいつらの雇い主は相当老いぼれらしいね。しかも、小間使いに自分のずりネタを探させてくるほどの。言ったら今度は耳か目がやられるので言わなかったが、俺は心の中で悪態を吐いた。金持ちなんて、反吐が出る。貧乏暮らしが長いと嫌だね、まっとうに稼いだ成果だとしても、認めたくなくなるのだから。きっと、この館の主も、人には言えぬ方法で荒稼ぎしたのだろう、なんて、くだらないことを考えてしまう。ほんと、浅ましい。
 車が停車する。館の前に備え付けられていた、大きな門の前だった。白い髭を蓄えた紳士服の男が、門の向こうには立っていて。俺たちの方を見るとゆっくりと門に近づいてきた。門番だ。彼が門の端へと移動すると、ゆっくりと、そしてけたたましい音を立てて、門が左右に動き始めたのだった。