「僕の不幸せな青少年時代 その二十八」


 孕んだことを、運悪くと、彼女は言った。まるで、自分が犯されたことはどうでも良いとばかりに。それがなんだか引っ掛かって。そんな目にあったにしては、彼女があっけらかんとしているのが、なんだか妙に腑に落ちなくて、僕は思わず首を傾げた。彼女はそんな僕を小さく嘲笑して、分からない人ね、相変わらず、と、まるですれた女の様な言葉を僕にかけた。
「それは分からないさ。だって、そんな目に合って、君は不幸なんだろう。なのに、なんというか君の態度が僕には不自然に思える」
「不幸だなんて言っていないわ。私は現状にはそれなりに満足しているの」
「けど、恨み言だって」
「それはそう、貴方達が呑気に学生をやっているものだからね。私には、そういう時間がないことを、羨んでのことよ。他人の芝は青く見えるの」
 相対的な話だ、と彼女は言う。子供に自由を奪われてしまった彼女には、何物にも縛られずに、この人生で最も輝いている時間を謳歌する僕達が、とても羨ましく思えてならないのだと。そしてその点を差し引いて考えれば、自分は子供を孕んだことにも納得しているし、今の旦那にも満足している。そういって彼女は左手をゆっくりと顔の所まで上げた。薬指には銀色のアクセサリーが輝いている。仕立てが良く、小粒だがダイヤモンドのあしらわれた、とても学生風情では買えそうにない、ちゃんとしたエンゲージリング。
 彼女は、彼女を犯した男と結婚していた。別段、彼女は彼について特別な思い入れを持っていた訳でもなかった。彼の方が、その日その時まで、一方的に彼女のことを思っていたのだという。そしてその夜、彼女に彼が働いた行為は、彼女の体と彼女の心に大きな傷を負わせて、大学受験を中断させるような出来事だった。彼は、自分が彼女を壊してしまった事を深く悔やみ、彼女にありとあらゆる方法で詫びた。しかし、彼が何かを喋れば喋るほど、彼女はあの夜の出来事を思い出し、酷く錯乱したのだという。
 そんな彼女の精神状況に変化が訪れたのは、彼に犯されてから三カ月後。既にすっかりと大学受験のシーズンは過ぎ去ってしまい。彼女の浪人が覆らない事実となった頃だった。こみ上げる嘔吐感と異物感に、もしやと思って使った妊娠検査薬は赤紫色に染まって、彼女は自分の妊娠を知った。
「自殺しようかしらと思ったわ。だって、あの夜の出来事を、私はなかったことにしようと思ってたの。親にも、友達にも、誰にも黙ってね。自分の人生を台無しにしてくれた出来事を、悪い夢にして片づけようとしていたの」
 急いで彼女は産婦人科に行った。そして、中絶手術を試みようとして、それには父親と思われる人間の同意が居るという事を初めて知ったのだ。そんなもの、適当に誤魔化してくれれば良いのに、律儀な彼女は自分を犯したその男に、中絶の同意書と、そして、中絶費用の捻出を求めたのだった。
「彼も面食らったのね。電話の向こうで声が震えてたわ。けど、暫くして覚悟を決めたように、言ったの。全て、僕に任せてくれ、責任はとる、って」
 一カ月後、彼は彼女の前に同意書と百万円を持って現れた。受かった一流大学を退学して、アルバイトをしてまでして貯めた百万円だった。