「僕の不幸せな青少年時代 その二十六」


 まさか、と、思ったが、間違いなくその妊婦は彼女だった。僕の家に泊めて以来、会う事のなかった、受験に失敗したという、あの村上春樹が好きな少女、逢瀬陽菜だった。どうして彼女が妊婦になっているのか。僕は彼女とそういう事をした覚えはなかった。彼女を思って、違う女を抱いたことはあるが、それが彼女をこんな状態にはしないだろう。つまり、俺以外の女が彼女を抱いて、彼女に受け入れられて、こういう事になっている、という事なのだろう。怒りと悲しみが混じり合った、陰鬱とした気分に自分を貶めようとする複雑な感情が、胃の底の底から滲み出るように湧き上がってくる。
 彼女は相変わらず澄ましたような顔をして、僕から視線を逸らした。そして詩瑠の方を一瞥すると、ふぅん、と僕に聞こえる程度の声を出して、視線を下に落とした。彼女が何を言おうとするのか、僕は気が気でなかった。そんな僕の心をあざ笑うかのように、あるいは彼女の性格から、ここで何かを言っても無駄だと思ったのか、彼女は何も言わず黙り続けたのだった。
「お兄ちゃん、どうかしたの? なんだか、顔色が悪いけれど」
「いや、なんでもないよ。こんな時間に電車に乗るのは、久しぶりだから」
「そうなの。大学生はお寝坊さん、なのね。羨ましいわ」
 至って普通な会話を心掛ける。心の動揺を、詩瑠にも、彼女にも悟らせないように、僕は神経をとがらせた。喉が渇き、手が震える。彼女を見るな、見れば嫌でも考えてしまう。僕は視線の方向を大きく変えて、進行方向とは逆の方向にある乗務員席を通して、過ぎ去っていく街の風景を眺めた。
 駅に着くと、そそくさと彼女から逃げるように電車を降りた。そして、改札を出て振り返ると、彼女が僕達をつけるように改札に向ってくるのが見えた。なぜ、どうして、彼女がここで降りるんだ。いやいや、何かの偶然だろう。ここは大きな街だから、産婦人科にでも行くのかもしれない。しかし、それならそれで、彼女の住んでいる街にも、そこそこ大きな産婦人科があるはずだ。彼女の謎の行動に、僕の胃がきつく締めあがる。
「お兄ちゃん、本当に大丈夫。ちょっと、休もうか?」
「大丈夫だよ。お前が、人の体調を気にしている場合か。ほら、さっさと試験会場に行くぞ。日光に当たるのはよくないって、先生が言ってただろ」
 うん、と、納得いかない表情で頷いた詩瑠は、僕に手を引かれて歩き出した。まさか僕達をつけている訳ではあるまい。試験場に行けば、流石に彼女も居なくなる。声もかけずに、こうして別れてしまうのは、なんだか忍びない気もするけれど、それでも、僕と彼女の関係を、詩瑠に知らすことが良いことであるとは、僕には思えなかった。詩瑠にとっても、僕にとっても。
「わぁ、立派な建物だね。人もいっぱいいる」
 試験開始一時間前だというのに、試験会場には大勢の人間が集まり、思い思いの勉強道具を開いて試験に備えていた。詩瑠以外にも、こんなに多くの人が試験を受けるのか。皆、それぞれに、詩瑠と同じような複雑な事情を抱えているのだろうな、と、僕は少しやりきれない気分になった。
「あれ。お兄ちゃんあの人。電車に乗っていた人だよね。あの妊婦さん」