「僕の不幸せな青少年時代 その二十五」


「お兄ちゃん、私ね、大学検定を受けようと思うの」
 僕が詩瑠の部屋の花瓶に花をいけている時だ。彼女は突然に僕にそんな事を言った。無知な僕は、彼女が何を言っているのかさっぱりわからず、いったいそれは何かとすぐに尋ねていた。すると、知らないのも無理もないよねと前置きして、彼女は大学検定についての説明を始めた。要約すると、つまり、高校を何らかの事情で卒業していない人間が、大学試験の資格を取得するための試験らしい。それを取れば、詩瑠でも大学に通う事ができるのだ。
 つまり、だ、詩瑠は僕と同じように、大学に行きたいらしい。あんな、話す相手もおらず、暗澹とした想いで通い続けるしかない、大学に、だ。
 どうしてそんな事を言うんだいと尋ねると、だって、お兄ちゃんの話があまりに楽しそうだったからと、彼女は答える。僕が話した嘘の大学生活は、彼女の幼い心を大いに魅了してしまったらしい。今となっては、自分の嘘が恨めしい。自業自得とは分かっていても、詩瑠に不必要な期待をさせ、講堂に走らせたことが、僕をとても後味の悪い気分にさせたのだった。
 辞めておけと、彼女にいう事は出来なかった。実はと、僕の本当の大学生活について、彼女に語ることもまたできなかった。僕はなるほどねと、彼女のその涙ぐましい提案を肯定して、じゃぁ頑張りなさいと頭を撫でてやることしか出来なかった。擽ったそうに笑う詩瑠を見て、また僕の良心が痛む。
 元々、小学生の頃から勤勉だった詩瑠は、めきめきと力を付けて行った。一カ月も経つ頃には、高校を卒業した当時の僕より賢くなっていたし、秋口に入ればもうすっかりと、僕とまともに大学受験の内容についてやりあえるくらいになっていた。ただテキストを読むだけで、ここまで賢くなれるというのが少し妬ましい。テキストの何倍のお金をかけて、僕は予備校に通ったというのに。そんなことを時々呟くと、詩瑠は少し歯がゆそうな顔をして、私がこんなに勉強できるようになったのは、お兄ちゃんが予備校での授業を教えてくれるからだよ、と、優しい言葉を僕にかけてくれるのだった。
 そうして、大学入学資格検定の日はやってきた。詩瑠はこの日の為に一人で親を説得し、医者に外出許可を申請した。容態はすっかりと安定していたので、試験日だけならば、そして保護者が同伴するならという条件で、医者は彼女の外出を許可した。彼女と親以上に親密で、暇をしていた僕は彼女の保護者として選ばれて、大学の講義を休んで彼女の試験に付き添う事になったのだった。ごめんね、大学を休ませてと、しきりに僕に謝る詩瑠を車椅子で押して、僕は大学入学資格検定の行われる会場へと向った。
 タクシーに乗りて駅で降り、駅から大学入学資格検定が行われる都市へと向かう。タクシー運転手や駅の職員の手を借りて、なんとか電車に乗ることができた僕と詩瑠は、車椅子用のスペースに並んでほっと息をついた。前の席は優先シートとなっていて、お腹の大きな妊婦が小説を読んでいた。昔僕がの読んだことのある本だ、あれはそう、ノルウェイの森。ふと、妊婦の面影の中に、一年前に会ったきりの逢瀬さんの姿が重なった。彼女は元気にしているのだろうか、そう思った時、ふと、妊婦と視線が重なった。