「僕の不幸せな青少年時代 その十七」


 僕が壁の方を向いて暫くしてからだ、背中の方向で何かが軋む音がした。くたびれた扉の蝶番があげるようなそんな音だった。誰かが僕の部屋に入ってきた。誰だろうかと気になったが、僕は後ろを振り返らなかった。この家に居るのは僕と隣の部屋に眠る彼女だけだ。論理的に考えるならば、彼女以外に僕の部屋に入ってくることのできる人間は居ないだろう。あるいは、観鈴や両親が帰って来たのかもしれないが、そんな気配は僕は感じなかった。
 ゆっくりと、ゆっくりと、重たげな足音を鳴らしてそれは僕の眠るベットの方へと近づいてくる。起きていることを彼女に示すべきか考えたが、それもはばかられるような、そんな重苦しい雰囲気が部屋には漂っていた。彼女が僕のベッドに腰掛けるのを感じ、僕の胸が一瞬だが高鳴る。何をするのだろうかと、期待と不安をバニラとチョコのミックスアイスクリームの様に混ぜた感情が、僕の心を冷ややかに刺激した。しかし、そんな僕の心を見透かしたように、二人の息遣いばかりがよく聞こえる沈黙がやけに長く続いた。
 沈黙を破ったのは、彼女の服もしくは髪が揺れる音だった。彼女の手が僕の首へと触れれば、冷たさに背筋が思わず跳ね返りそうになる。なんて冷たい手をしている女だろう。長く一緒に居るが、あまり彼女の体に触れるようなことはなかった僕は、思いのほか冷たいその体温に、少し驚いた。生理現象で体も少し震える。それで、僕が起きてしまったと勘違いしたのか、彼女はまた少しの間静止した。十秒ほどの間があって、再び、もう一つの手を僕の首に沿えたと思うと、今度は胴回りにずっしりとした重みを感じた。
 僕の上に彼女が馬乗りになっている。女の子に体の上に乗られるだなんて行為は、この年頃の男の子ならば興奮しない訳にはいかない刺激だった。心臓が急激に運動を開始し、下半身に血を巡らせていくのが分かる。同時に、目だけでなく、体中の五感が研ぎ澄まされていく。彼女の一挙手一投足を、目を閉じながらに僕は把握することができる、そんな気がした。
 ふと、彼女が何か呟いているのに僕は気づいた。それはとても低い声で、恨み言の様な静かながら凄味のある声色をしていた。集中して、僕は彼女が何を言っているのか聞き取ろうと耳を澄ませる。
「……お……ちゃん、……い……ん、おに………ん」
 同じ言葉を繰り返しているのだとすれば、おにいちゃん、と、彼女は呟いている。おにいちゃん。彼女に兄など居ただろうか。少なくとも、そんな話を僕は彼女から一度だって聞いたことがない。それに、それに、どうだろうか。彼女の体は、十八歳にしては明らかに軽かった。それはかつて、僕が高校時代に抱いたことのあるマサコよりも軽かったのだ。おかしい、こんなに彼女が軽いわけがない。もっと神経を研ぎ澄ませば、その僕の上に撃馬乗りになっている存在が、質量を伴わずそこに存在しているのが分かってしまった。なんんだ、これは、いったい何が僕の体の上に載っているというのだ。
「……おにいちゃん、起きて、お願い、起きて」
 急に首元が閉まった。驚いた僕が目を開けると、僕の体の上には白い髪をして赤く目を光らせる、得体のしれない何かの姿があった。