「僕の不幸せな青少年時代 その十八」


 それが悪い夢だと気付いたのは、コロ太に吼えたてられて布団から飛び起きた時だった。いったいどうやって僕の部屋に侵入したのか、容赦なく僕の耳元で吼えた白い大きな犬は、なぜだかご機嫌な様子で、朝の余韻だとか悪夢の余韻に浸る暇もなく、起き抜けの僕の顔を舐めてきたのだった。
 詩瑠が病気で入院して家に居なくなってから、コロ太の面倒を見るようになったのは観鈴だった。と、言っても、観鈴もまた仕事で家に帰らないので世話のしようがない。正確には、観鈴が引き取ったという形にして、彼女の部屋で飼っているというべきだろう。餌の手配や、散歩に連れて行くのは、もっぱら僕の仕事だった。もっとも最近は受験の準備で忙しく、ろくに構ってあげられていないのだが。もしかして、それで拗ねてやってきたのか。
 そのざらつく舌で僕を舐めまわしに舐めまわしてくれるコロ太。まったくしょうのない奴だと、ベッドから起き上がった僕は彼の頭に手を置く。待てと声をかけると、前足を揃え後ろ脚を曲げてオーソドックスなお座りのポーズをとってコロ太は静止した。よしよし、ちゃんと僕のいう事を聞く良い子で助かる。詩瑠や観鈴もこうだったが、基本的にコロ太は人懐っこく、また人の命令をよく聞く。滅多に顔を合わさない父さんや母さんにも、彼は吠えたてるようなことはなかったし、そっけない態度をとることもなかった。ほんと、よくできた愛玩動物だ、飼い主の顔が見てみたいものだよ。
 ベッドから起き上がるとまずは窓の外を見る。日の光はまだ白んでいて、昼という感じではない、次いで壁にかけている時計を見れば、時刻がまだ六時半だという事に驚いた。よくて四時間寝たかというくらいだ。普段ならば間違いなく二度寝コースなのだが、不思議と眠気が湧いてこないのだった。まるっきり、昨晩と同じだ。幾らなんでも、気にし過ぎだろう、僕も。
 そういえば、昨晩はいったい何時頃から寝ていたのだろう。寝返りを打って、壁に背を向けた所までは間違いない。その後、何者かが僕の部屋に入ってきたのは、結局夢だったのか。いや、もしかすると、隣の部屋で眠る彼女が、本当に僕の部屋に入って来たのかもしれない。それを、寝ぼけていた僕が何か得体のしれない物と勘違いした、そういう事なんじゃないだろうか。
 案ずるより産むがやすしで、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥だ。こういうのは彼女に実際に聞いた方が早いだろう。こんな時間に起きているか、少し心配だったが、几帳面な彼女のことだから、意外と朝は早起きなのかもしれない。僕はコロ太の唾液で所々湿ったパジャマを脱ぎ捨てると、ジーンズを穿きシャツを着て部屋を出た。そして、彼女が眠る詩瑠の部屋の前に移動すると、五月蠅くない程度の音で扉の中央をノックしてみた。
 返事は返ってこなかった。まだ眠っているのだろうかと思ったが、ふと扉が開いているのに僕は気が付いた。不用心、いや、もしかして、と、ドアノブに手をかけてゆっくりと部屋の中に押し込む。すると、彼女が寝ているはずの詩瑠のベッドには既に人の姿はなく、綺麗に折られた布団の上に、枕が置かれていたのだった。まるで溶けてひしゃげた雪だるまの様だった。
 玄関に降りれば、思った通り彼女の靴もなくなっていた。