「僕の不幸せな青少年時代 その五」


 ノルウェイの森を借りてきたその日の夜に、僕は父さんと詩瑠の病室で鉢合わせた。その時、僕は咳の酷い詩瑠の背中をさすって、彼女が寝付くのを待っていた。父が入ってくる頃には、薬が効いてきたのか、咳は収まり、詩瑠は静かな寝息を立てて、彼女は眠り始めていた。ただ、なにかあってはいけないと、暫く様子を見ることにした僕は、鞄からノルウェイの森を引き抜くと、パイプ椅子に腰かけ、眠っている妹の方を向いて読んでいたのだ。
「……寝ているのか、詩瑠は」
「うん。さっきまで酷い咳をしていたんだけどね。薬が効いたみたい」
 残念そうに溜息をついた父は、僕の横を素通りすると、ベッドで眠る詩瑠を見下ろした。すっかりと白くなった彼女の頭に手をかけようとして、直前で止める。きっと、詩瑠の眠りを妨げてはいけないと躊躇したのだろう。口数こそとても少ないが、父は、人へのおもいやりという奴を人一倍持っている。ゆっくりと、彼は詩瑠の頭から手を引くと、彼女に背を向けた。
「帰るの?」
「あぁ。寝ているなら、仕方がない。また、出直すとしよう」
「家に寄るなら送って行ってよ。自転車だけど、車に乗るだろう」
 父の冷徹で冷静な瞳が僕に降り注ぐ。柄にもなく笑ってみせると、しょうがないなという感じに父が溜息を吐いた。
 了承ということだろう。僕は立ち上がってパイプ椅子を折りたたむと、音を立てないようにしてそれを壁に立てかけた。そして、一人先に病室から出て行った父を追いかけて、病室の扉を横にスライドさせた。
 おやすみ、詩瑠、また、来るからな、と、静かに眠る詩瑠に小さく声をかけて、俺は病院の廊下に出ると、父の背中を探した。
「予備校の方はどうなんだ。順調か」
「もうすぐ受験だっていうのに、小説を読んでいる時点で、そこはさっしてしかるべきだよ。いや、通わせてもらって、言う様なことじゃないけど」
 車の助手席に座り、自販機で買ってもらったあったかいレモンティーを呑みながら、僕は父に正直なところを打ち明けた。
 こんなことを母に言ったならば、お金を出して通わせているのよ、ちゃんとやりなさい、と、頭ごなしに怒ってくるだろう。だが、父は、そういう性分ではない。そうかと呟くと、それっきり、何も言ってくることはない。それでいいと思っているのか、言いたいことがあっても黙っているのか。なんにせよ、自分の意見を無理やり押し付けてくれるよりは、気が楽だ。
「まぁ、お前のペースでやればいい。焦ってもどうにもならん」
「うん。ありがとう。そう言ってもらえると気が楽だよ」
「それはそうと。珍しい本を読んでいるな」
 珍しい本。というと、もしかして、ノルウェイの森のことだろうか。昼間の女の子といい、父といい、何故そんなにあの小説の事を聞くのだろう。
 父さんも読んだことあるの。なんとなく、聞いてみると、父にしては珍しく、少しの間もおかず、あぁ、と、僕の問いに即答してみせた。