「僕の不幸せな青少年時代 その四」


 僕は赤い村上春樹短編集を借りて予備校に戻った。戻ると丁度授業開始のアナウンスが鳴って、その日は結局、借りてきたその本を一ページも読むことはできなかった。次の日の朝に、僕は一時間ほど早く予備校に登校し、誰も居ない教室で初めてその本を読むことになった。のっけから、僕の理解力を遥に超えた作品に頭の中をめちゃくちゃにされて、僕はすっかりと授業を受ける前には憔悴しきっていた。こんな状態じゃ、とてもじゃないけれど、何も正しく判断すること等できやしない。僕の頭の中は、村上春樹という作家が、いったい僕に何を伝えようとしているのかという強烈な疑問で、満たされて、それ以上に、雑念だって入り込む余地などなくなっていたのだ。
 そんなだから、昼休みにカロリーメイトを片手に、短編集の続きを読んでいる時も、話しかけられたのに気付かなかった。突然、肩を掴まれて、ねぇと耳元で叫ばれて、僕はようやく、後ろに人が立っていることに気付いた。
「ねぇ、貴方のそれ、村上春樹の短編集よね。好きなの」
 それは僕の記憶にない顔をした女の子だった。高校時代の同級生でもなければ、中学時代の同級生でもない。小学生ともなると、流石に顔が変わっているから判別できない自信があった。余り多くない、先輩・後輩の記憶をたどってもやはり該当する人物の情報は見つからず、僕は失礼だとは思ったけれど、君は、と、僕の後ろに立っている、見知らぬ女の子に尋ねた。
「名乗る必要なんてあるのかしら。私はただ貴方に、村上春樹が好きなのって聞いているだけなのよ。答えは、YESかNOの二つでしょう」
 確かに彼女の言うとおりだ。そんな事を知った所で何も意味はない。僕は観念して、けれども彼女の言うとおりにするのもなんだか負けた気がして、いいや、別に好きじゃないよ、たまたまさと、捻くれた答えを返した。
 そうなの、と、彼女は特に驚いた様子もなく、特に悲しんだ調子でもない声で言うと、僕の後ろから立ち去った。なんだったんだろうかと、僕は少し彼女の不可解な行動について考えたけれども、そんなことが分かるのなら、僕は予備校なんて所に来ていないなと気づいて、再び村上春樹の小説を読むことにした。そして、やはり分からないなと、なんだか意地悪な数学の先生に、明日のテストでは基礎問題しか出さないからと言われ、基礎の中に基礎を詰め込んだ難解な数式を出されたような気分になったのだった。
 短編集を全て読破するのも良かったのだが、いざ図書館に行ってみると、短編集2が置いていなくて、機先を逸らされた僕は、それならば名作を読もうと、彼の代表作であるノルウェイの森を今度は借りた。上下巻とも借りようかと思ったが、僕の読書量では、返却期限に上巻を読むのもやっとだろうから、赤い上巻だけを借りる事にした。その日は借りる本というか作家を定めていたため、予備校に帰ってきて少しだけ本を読む時間があった。僕が、事実上の僕の指定席に座って、いつものように本を読もうとすると、また後ろから、突然声がかかった。振り返れば、あの時の女の子が立っていた。
ノルウェイの森じゃない。なに、嫌いじゃなかったの、村上春樹
 どうだろう、よく分からないよと、今度は僕も彼女に正直な所を答えた。