「僕の不幸せな青少年時代 その三」


 予備校の待ち時間は僕にとって退屈な物でしかなかった。同い年の友達も周りにおらず、年下の現役受験生と、年上の情けない浪人生のどちらにもなじむことが出来なかった僕は、休憩時間の多くを小説を読んで過ごした。そんな物を読んでいる暇があったら、単語の一つでも覚えるべきなのだろう。しかし、去年の過酷な受験勉強により、少ない脳の容量にむりくり知識を詰め込んだ僕には、予備校の授業以上に何かを頭に詰め込む余裕はなかった。
 この当時の僕は随分とませていて、周りがライトノベルだとか、漫画だとか、薄っぺらく軽い本を読んでいる中で、一人ハードカバーの重たい小説を読んでいた。本の重さがそのまま内容の重さだと、信じてやまない年頃だったのだ。そんな僕だから、ろくに小説の内容を理解できるはずもなく、難しい授業のテスト勉強をしている時に似た漠然とした気分で、世の中で名作と呼ばれているような小説を読破していった。おそらく、それらの本を読んで僕が学んだことはといえば、他人の思考と自分の思考の剥離だけだろう。
 そんな中で、冬に入りいよいよ二度目の大学受験が差し迫ってきた僕は、不意に長編と言う奴に挑戦したくなった。上下巻だけではなく、中巻があるような。けれども、北方謙三水滸伝三国志のように、十数冊もでていないような、ほどよい長さの小説を、読んでみたいと思ったのだ。恐らくは、受験のプレッシャーから継続して逃避することのできる物が欲しかったのだろう。一冊だけの本などは、それを読み切ってしまえば、そろそろ受験だからと、読まなくなってしまう、読めなくなってしまうに違いなかった。
 近所のスーパーに出店している本屋で買った、翻訳小説を読み切ったその日、僕は予備校の昼休みに、少し遠出をして市の図書館に向った。長編小説を読むには、やはり下調べが大切だ。図書館で、ある程度当たりをつけてやろうと思ったのだ。僕は久しぶりにやってきた図書館の中を五分ほどあてどなく彷徨って、小説コーナーへと辿り着くと、良さそうな本がないか本棚を眺めた。どれもこれも、知らない名前の作家ばかりだ。僕はハードカバーの本は読むが、あまり作家と言うものに執着を持ってそれらを読んだことはなかった。なので、作家別に陳列された棚を見ても、今一つこれといった直感めいたものが閃くことはなかった。そうして棚を眺めながら歩いて行くうちに、僕はこれといった物を見つけられないまま小説コーナーの突き当りに差し掛かってしまった。市の小さな図書館である、蔵書はそんなに多くない。仕方ないかと引き返そうとしたとき、ふと、棚にずらりと並んだカラフルな色をした短編集が僕の目に入った。色とりどりな装丁をしているくせに、タイトルはシンプルなそれは、村上春樹短編集だった。村上春樹、名前くらいは聞いたことがあるなと思い、僕は足を止めて、短編集の一巻を手にした。
 当時、僕が読んだ小説を題材にして、小学生の国語の問題を作ったとしたならば、この短編集の一巻に書かれていたTVピープルについて、僕は赤点をとる自信があった。いや、きっと、十点だってとれない気がする。村上春樹の書いたTVピープルは、どう言えばいいのか、いまだによく分からないのだが、色々な意味で僕にとって衝撃的な小説だったのだ。