「僕の不幸せな青少年時代 その六」


 自分で聞いておいてなんだが、それはとても意外な返答だった。あまり小説だとか、映画だとかを見ている姿を見たことない父だから、きっと読んでいることはないだろうと、思っていたのだ。赤信号で止まった拍子に、どうしたそんな驚いた顔をして、父が僕の顔を覗き込んでくる。まいったね、こんな切り返しが来るとは思わなかったよ。どう言葉を返して良いやら。
「文庫版だが、俺の書斎にも置いてあるぞ。言ってくれれば、貸してやったのにな。ハードカバーは、読むのが疲れるだろう」
「そんなことはないよ。そっか、父さん持ってたんだ、ノルウェイの森
 お互いが次の言葉を探して無言が車の中を支配する。気まずいわけではないのだが、なんだろう、妙にそわそわとして落ち着かない気分だ。
 前方の信号が青色に代わり、車がゆっくりと発信する。
「なんで持ってるの? 好きなの、村上春樹?」
 それくらいしか、この空気の中で言えそうなフレーズはなかった。
 ほんと、こんなこと聞いていったいどうしたいっていうんだろうね。僕に
しても、昼間、予備校で僕に話しかけてきた彼女にしても。
 父はしばし沈黙した。そのまま、黙って家についてしまうのではないかと思ってしまう程、その沈黙は長く、そして、突然に終わりを告げた。
「母さんと結婚する前に、付き合っていた人が居た。その人が、面白いから読んでみろと、ある時、本を俺にくれたんだ」
「へぇ、それ、初耳だなぁ」
「子供に話す様なことではないからな。その時の本はハードカバーだったんだがな。結局色々あって、母さんと結婚するときに捨てることになった」
 母さんが、きっと五月蠅く言ったのだろう。我儘で独善的で、ろくなことをしない人だ。思い出の品くらい残しておいてやればいいのに。
「お前たちが産まれて暫くは、すっかり忘れていたんだがな。ある日、急に読み直したくなって、な。ずるずると引きずって、結局出張の時に、駅の中の本屋で文庫を上下巻買ったんだ。新幹線を降りるときに、捨てようと思ったんだが。まぁ、なんだ、今度はちょっと捨てられなくなって、な」
「なんでさ? 前の恋人に贈られた、ハードカバーは捨てられたのに? おかしな話じゃないの、それって?」
「まぁ、そうだろうな。私だって、なんで捨てられないのか、自分でも分からないよ。別に、彼女との思い出があるってわけでもないんだ。ただ、差し迫って捨てる必要がないから、なら、取っておこうかと、そういう感情や思考の延長線上にあるんだろうと、思う」
 じゃぁ、もしどうしても捨てなければいけない状況に陥ったら、父さんは迷わずノルウェイの森を捨てるのかい。なんでこんな事を聞いたのか。咄嗟に口から出たので、僕は言ってから戸惑った。
「あぁ、きっと。そして、また必要があれば、今度は古本屋で買うだろう。あるいは、お前みたいに図書館で借りるかもしれないな」
 なんとなく、僕は父のその気持ちを、思考を、分かるような気がした。