「大園美鈴の活躍」


 完全に眠りこけていた。額に沸いていた重たく脂っぽい汗を拭い去ると、俺はベッドの上で体を起こした。嫌な夢だった、不快な夢だった。他人にしてみれば、どうということはない夢かもしれないが、俺にとってはこの上ない悪夢だった。ふと瞼の縁をなぞってみれば、冷たく湿っている。寝ながら俺は泣いていたのだろうか。残滓かそれとも感傷か、俺の瞳から新しい涙がこぼれ出る。それっきり俺の瞳から涙が流れることはなかったが、すっきりとしない気分のまま、俺は茶色い窓枠の中に夕暮れ色の庭を眺めていた。
 鼻血はすっかりと止まっていた。赤く染まっているティッシュペーパーの先には、透明色の液体が付着していて、抜いても熱い液体があふれてくることもなかった。机の上にあるティッシュペーパーを手に取ると、一枚抜いて軽く鼻の穴の周りを拭った。細やかな赤い粉が剥がれ落ちる。随分と量が多い、一度顔を洗った方が良いかもしれない。しかし、下手に刺激を加えてまた傷口が開いても面倒だ。妥協案として俺は洗面所に移動すると蛇口をひねり、水でティッシュペーパーを湿らせると、鼻穴を優しく拭った。薄紅色に染まったティッシュペーパーを、汚れていないティッシュで包んでゴミ箱に捨てる。正面の鏡で状況を確認すると、まずまず顔は綺麗になっていた。
 リビングに戻ると、俺は雅が俺を殴った鍋をキッチンで洗い、収納棚に押し込んだ。それからソファーで優しい寝息を立てて眠っている雅の所に移動すると、その頭をゆっくりと撫でた。くすぐったそうに雅が顔をしかめる。彼女のこういう仕草は俺を幾らかまともな気分に引き戻してくれた。まともというのは、悲しみに支配されて、何もかもが憎くて仕方ないようなそんな気分の状態だとか、退廃的な気分になって自分でも自分の制御が効かないくらいに衝動的に行動してしまうような状態だ。詩瑠や観鈴では拭う事は出来なかった、癒すことのできなかった、俺の中に存在している、どうしようもない欠陥を、彼女は、時に俺から受ける暴力を受け入れることで、時に彼女からの暴力を俺が受け入れることで、そして、こうしてただ一緒に居ることで、癒すことができるのだ。俺たちの関係が、決して、正しい関係ではないというのは、俺も重々承知している。だがしかし、それが分かっていて改められるようなものであるならば、俺は、きっと、こんなに苦しまなくても良いのだろう。俺は雅を傷つけることでしか、もう生きて行くことができないのだ。愚かな俺には、妹を救えなかった俺には、何もない俺には。
 俺は雅の頭を撫でながら、テレビの電源を点けた。夕方のニュース番組に紛れて、再放送されていたドラマにチャンネルを合わせる。それは、俺の妹である、大園観鈴が主役級の役で出演しているドラマだった。まだ、俺と彼女が仲たがいしていた時期の作品だ。この頃は俺も彼女に随分と酷く当たっていたし、彼女も俺の事を毛嫌いしていた。今でこそ、時々、連絡をし合う仲になったが、その当時、俺と彼女がこんな関係になれるとは、俺はおろか俺たちの親だって思っていなかっただろう。それもこれも、全て、味噌舐め星人のおかげだ。詩瑠に化けて俺たちの中を取りもってくれた、彼女の。
 駄目だ、この頃の観鈴を見ていると、またどす黒い気分になってくる。