「砂糖女史は俺の頭を鍋で殴りつける」


 手に持っているのは鍋。俺が雅の体を散々に殴りつけたあの鍋だ。あんな鍋で殴られたくらいで、よろめいたのか。いや、打ち所が悪かったのか。俺の上に馬乗りになると、肩に担ぐようにして鍋を持った雅は、一呼吸おいて俺の顔面に向かってそれを振り下ろした。鼻頭を鍋の底が打つ。やはり痛くはない。じんわりと熱くなる鼻頭を軽く直して、俺は止めろと目で雅に訴えかけた。臆病な彼女は、俺の眼に明らかに怯えたが、それでも、勇敢にもう一度鍋を振りかぶって俺に向かって振り下ろした。今度は、俺の右目に鍋の底が当たった。やはり、痛くはない。殴られたおかげで、少し視界は歪んでいたが、問題はなかった。俺はもう一度雅を睨み付けた。今度は憐みを込めて、お前の様な女には人なんて壊せないという思いを強く込めて。
 どうして、どうして貴方はそうなんですか。どうして、私をそんな目で見るんですか。そんな、犬か、猫でも見るような目で。憐れむような目で。雅が持っていた鍋を床に落として、涙声で言った。涙と鼻水の混ざったような、粘っこい何かが俺の顔に降りかかってくる。汚さよりも、悲しさが俺の心を掻き乱した。どうして、か、どうしてだろうね。自分でも、自分という奴が分からないよ。暴力的に雅のことを扱ってみたり、ただの惰性だけで維持されている関係だと皮肉っている、その一方で彼女に依存している、彼女を手放したくないと思ってもいる。物の様に彼女に接したかと思えば、暴力的な抵抗もせずに、彼女を目で説得したりもする。ただ一つ、絶対的に言えることと言えば、俺が雅よりも上の位置に居るということだけだろう。結局、雅は俺の上で泣き崩れて、俺の方を抱くようにして、前のめりに倒れこんだ。彼女の嗚咽が胸に響く。俺はゆっくりと彼女の頭に手を這わすと、その柔らかな髪の毛を撫でた。何度も何度も、彼女の不安と恐怖を和らげるように。
 やがて穏やかな寝息をたてて眠りについた雅を、俺は体の上から除けてソファに寝かした。自分の部屋から毛布を持ってきて彼女に被せると、庭に出て俺は煙草を吸った。灰色の煙がもくもくと立ち上って行く。もっと、単純に生きれたら、どんなに楽だろう。自分の複雑さにほとほと嫌気がさす。人を傷つけずには生きられず、人を慰めずにも居られない。酷い人間にもなりきれなければ、優しい人間にもなり切れない。自分の中に混在する、複雑な感情の起伏に、気まぐれでつかみどころのない感情に振り回されて、いったいどれだけ雅や周りの人間を俺は傷つければ気が済むのだろうか。
 俺の様な人間は死んでしまうに限るのだ。生きていてもろくなことをしやしない、まともなこともできはしない。肺いっぱいに煙草の煙を吸い込む。このまま、ヤニの吸い過ぎで死んでしまえばいい。いや、もっと直接的で、すぐに死ねるやり方が良い。雅の持っていた鍋で体を殴ればいい。台所から包丁を持ってきて、それで首を切ればいい。家の塀に頭をぶつけて割れば良い。道路に飛び出せ、埋まれ、首をつれ、溺れろ。別にどうなろうが構わない。どうせ俺が死んだところで、誰も悲しむ人間など居ないのだから。
 鼻がむず痒くて、俺は人差し指と親指で鼻を挟み込んで鼻を啜った。煙草で灰色にくもった赤黒い粘液が、口から庭先に落ちた。