「醤油呑み星人の約束」


 携帯電話をかざし合って、アドレスを交換すると俺は醤油呑み星人と分かれた。じゃぁな、と、俺が彼女に背を向ければ、絶対に連絡しなさいよと、彼女にしては、しおらしい声で俺に言った。あぁ、連絡するさ、と、言いながら、内心、恐らく俺から連絡することはしないだろうと、思っていた俺は申し訳ない気持ちで俯いた。すまんね、だが、とても幸せそうな、アンタらと一緒に居たら、俺は自分が惨めで惨めで、とても自分を保てそうにない。
「ばいばぁい、にーちゃぁ」
 不意に背中に店長と醤油呑み星人の息子の声が聞こえた。この子供の声だけは裏切れなくて、俺は後ろを振り返った。カートから立ち上がって、こちらに手を振っている、間の抜けた顔の子供の姿が見える。その隣に立つ悲しい顔をこちらに向けるその子の親。俺はいったい、何をしているんだろう。
 湧き上がってきた嘔吐感に、俺は慌てて顔を逸らすと、走ってその場から逃げ出した。おつとめ品の事など、すっかりと忘れて。ただ、この場から逃げ出したい一心で、足を動かして、俺はスーパーから飛び出した。
 どうやって家に帰ったのか覚えていない。気づくと、俺はソファーに横たわって、テレビを見ていた。雅の姿はない。俺に乱暴されたことで傷ついて部屋にでもひきこもっているのだろう。あの女は、内向的な所が強く、二人で暮らすようになってからも、俺と一緒に居る時間よりも、一人でいる時間の方が長かった。彼女が部屋の中で何をしているのか、俺に知る術はない。彼女はプライベートの秘匿に関しては、これでもかと神経を使っており、最初に彼女に部屋を貸し与えた時を除いて、俺が彼女の部屋に入ったことはなかった。中からは、二重三重に鍵がかけられており。こじ開けても、つっかえ棒により、すぐには開かないようになっているのだ。そこまでして、彼女が隠す秘密と言う奴がなんなのか。俺は知りたかったが、知ってしまうと、俺はついに彼女まで失ってしまう気がして、聞きだせずにいた。彼女は、確かに俺にとって、心を慰めるだけの、どうでもいい存在でしかないが、それでも、彼女の存在で、今の俺はなんとか自分を保てているのだ。彼女を失ってしまったら、俺はきっと、今の状態だって保てなくなってしまうだろう。
 テレビの中で、男が歌っていた。黒くて長い髪にサングラス、茶色いなめし革のジャケットを着たその男は、ギターをやかましくかき鳴らしている。後ろでピアノを弾いている中国人風の女は、彼の顔を一瞬見て、微笑んでまた鍵盤をたたき始めた。素晴らしい演奏。それは、雑然としていながら、どこかで調和しているような、そんな音色だった。俺の心を掻き乱したかと思えば、優しくなだめすかすように合わせてくる。厄介な、けれども、心地の良い音。この音を奏でているこいつらは誰だ、誰だ。このキザな男はいったい誰だ。この冷淡な顔つきの女は誰だ。何故だろうか、理由は不明だが、俺は彼らを知っているような気になって、曖昧な記憶をたどってしまった。
 演奏が終わった、拍手を持って演奏者たちが迎えられる。立ち上がって礼をする男と女。司会者が名前を読み上げようとしたとき、視界が揺れた。頭に鈍い痛みが走った。ソファーに倒れこんだ俺の視界に、雅の姿が入った。