「僕の幸せな幸せな子供時代、そのさんじゅういち」


 父との会話を終えた僕は自分の部屋に入った。病気でもないのに二日も学校を休む訳にはいかない。詩瑠は確かに重たい病気だけれども、それは彼女自身の問題であり、僕自身の生活に対する免罪符にはなりはしないのだ。妹が死のうとしているというに、何を馬鹿な事を考えているのかね。そんな、休んで良いか悪いかなんて、命の前にどれほどの価値があるっていうんだ。
 悶々とした空気が僕の頭の周りに重苦しく漂っている。それはまるで、濃いインスタントコーヒーを淹れた時に漂ってくる、酸っぱさを伴った苦みの様なものに思えた。生臭い、血の様な、そんな生々しさがある、空気だ。僕はどうにかそんな空気を追い払おうと意識してみたが、詩瑠の一件で疲れ果てた僕には、とてもそれを払拭することはできそうになかったので、諦めてベッドの中に入った。けれども、ベッドの中にまで、その嫌な感覚は僕を追いかけてきて、延々と僕の頭頂部で鈍重なフォークダンスを踊るのだった。
 何度も目を閉じて、何度も目を開いた。とてもこんな気分じゃ眠れないよと、僕が諦めたのは深夜の二時くらいだった。時間にして、一時間もベッドの中で身悶えていただろうか。その間に父も母も家に帰ってこなかった。
 観鈴を置いて事務所に戻ったのだろうか。母と違い、父は今やそれなりに重要な役職を任されている。娘が重い病気だったとはいえ、仕事の埋め合わせを早急にしなくてはいけないだろう。充分にありあえる話だとは思った。妹が死ぬかもしれないという時に、明日休んで良いかと考える兄の親らしい行動だ。少し、頭を覆っている重苦しさが増した気がした。
 僕は自分の部屋を出ると、足音を立てずに廊下を渡り、詩瑠の部屋へと向かった。今朝がた、看病に入ったばかりの部屋は、勉強机の上におかゆを入れていた土鍋が置かれたままになっていた。片づけないとな、とは思ったのだけれど、手は伸びなかった。眠れない、けれどもなんだか無性に眠たい。報われない欲求が僕の平衡感覚を狂わせて、詩瑠のベットへと倒れこませるのに、そう時間はかからなかった。僕は、詩瑠の香りがするベッドに前のめりに倒れこむと、彼女の面影あるいは存在感を探して、暫し目を瞑った。
 ここに寝ていた詩瑠は、今、病院に居る。その事実を知っているのに、僕は探さずには居られなかった。居もしない詩瑠を腕の中に抱いているような気分にさえなった。もう、お兄ちゃん、何してるのよ、悪戯っぽく微笑む詩瑠の笑顔が、僕の瞼には確かに映っていたのだ。詩瑠、僕の可愛い妹。しかし、彼女はもう少ししたら、居なくなってしまうのかもしれないのだ。
 悲しみはやはり湧いてこない。彼女が死んだときに感じなかったように、僕は詩瑠が死んでしまうという事実に、ほんの少しだって実感の様なものを感じられはしなかった。ただ、自分の無力感だとか、浅ましさだとかが鼻について、どうにも笑えて仕方ない、そんなことしか感じない。感じれない。
 ふと、壁に詩瑠の学校の制服がかかっているのに気付いた僕は、その裾を引っ張って壁から降ろした。そして、黒く厚い生地を詩瑠の代わりに抱きしめると、また目を閉じた。どうやら、今度はよく眠れそうだ。
「詩瑠。どうして、お前が死ななくちゃならないんだ。詩瑠」