「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうはち」


 父さんと母さんが病院にやってきたのは、僕が詩瑠の見舞いに部屋を訪れてから二時間後の事だった。温かそうな毛皮のコートを着て、顔だけ寒そうに青ざめさせた母さんは、僕を見るなり掴みかかって、詩瑠は大丈夫なの、と、今の今まで放ったらかしにしておいた癖に、母親らしい事を言った。
「大丈夫じゃないよ。小児がんだって。詳しくは先生から説明があると思うけれど、もう手の施しようがない、余命半年の状態なんだって」
「……そんな。どうして。原因は何なの、何がいけなかったの?」
 原因が遺伝子にあったとは、僕の口からは言えなかった。それは僕達を産んでくれた父や母に対して、恩知らずな侮辱になると同時に、彼らを深く悲しませるように思えたのだ。激情的な母も、寡黙だが深刻な父も、その事実を僕から聞かされれば、きっと心にトラウマを持つに違いない様に思えた。
 先生の話は難しくて、僕にはよく分からなかった。とりあえず、今日は夜勤で詰めているので、両親が来たら救急外来に来るようにって、言ってたから。詳しい事は、先生に話を聞いてきて。僕はそう言って視線を逸らした。
「救急外来だな。分かった。ありがとうな、お兄ちゃん。もう家に帰って良いぞ。後は、父さんと母さんでなんとかするから」
「そうね。あっ、せっかくだから観鈴も連れて行ってあげて。明日は仕事お休みだから、あの子も連れてきてるのよ。車の中で寝かせてるんだけれど」
 母が車のキーを差し出す。予備のキーはあるから、そのキーで車に鍵をかけて帰って頂戴。それだけ言うと、両親は並んで病院の奥に消えた。
 とても家に帰る気分にはなれなかったが、それでも、いつまでも僕が病院に居ることで事態が好転する様には思えない。観鈴の事もある、今日はとりあえず家に帰ろう。家族が大変な目にあっているというのに、打算的な考え方をする自分がどうにも情けなかった。やはり、僕は酷い奴だな。
 見覚えのある赤い軽自動車を見つける。後部座席でシートを二つ占領して寝ている可愛らしい眠り姫を見つけて、僕はそれが自分の家の車だという事を確信した。テレビで彼女が着ている、フリルがついた女の子らしい服とは打って変わって、白色のパーカーを着てフードを目深に被った観鈴は、だらしなく涎を垂らして、惰眠を貪っていた。お姉ちゃんが苦しんでいるというのに、子供は呑気な物だ。しかしそんな姿に、少しだけ救われた気もした。
観鈴観鈴起きろ。お家に帰るぞ」
「うーっ、もうお家なのです? あれ、お兄ちゃん? ここは?」
「病院だよ。詩瑠お姉ちゃんが倒れたって、お父さんやお母さんから聞かなかったのか?」
 あぁ、そう言えば、そんな話をしてたのです、と、観鈴は小さな手を握り締めて、その眼をくしくしと擦り上げた。本当に呑気な物だ。
 白色のパーカーのフードを頭から取り払うと、観鈴は僕の顔を見上げる。
「お姉ちゃん、大丈夫なのですか? お病気、大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。お医者さんに任せておけば、何も心配することはないって。さっ、夜も遅いし、今日はお兄ちゃんと帰ろうか」