「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅうに」


 その時、随分と遅れて詩瑠が眠たげに瞼を擦った。小さな手を握りしめて猫の様に顔を洗うと、どうしたのお兄ちゃん、と、間延びした声で僕に尋ねた。よかった、どうやら詩瑠が病気になったのではというのは、僕の気にし過ぎだったらしい。詩瑠は眠たげな眼をこちらに向けると、大きく長い欠伸をして見せた。家族とはいえ、女の子がそんな大口を開けて、はしたない。しかし、そんな詩瑠の呑気な仕草に、今は心が落ち着いた。
「こらっ、こんな所で寝てたら風邪ひくぞ。もうすぐ中学校のテスト期間だろう。体調管理しておかないと、痛い目を見るぞ」
「体調管理なんて、してもしなくても結果は同じだよぉ。私、お兄ちゃんの妹なんだから。だから、うぅっ、もうちょっと寝させて」
 そう言われると返す言葉もない。成績が悪くて、進学校も三流の大学にしか行けなかった僕が、どの面を下げて詩瑠に勉強をしろと言えるのか。
 いや、この際は勉強がどうこうは関係ないじゃないか。詩瑠の体調の事を思っての話だろうに。上手くはぐらかしてくれたな、この妹め。
 駄目だ、と、強く言うと、俺は詩瑠の脇に手を通した。そして、後ろから妹の体を抱き上げると、彼女をテーブルと椅子から引き離す。
「あぁっ、なにするのよお兄ちゃん!? やだっ、もうちょっと寝るの、もうちょっとだけ寝るのぉ!!」
「だから、こんな所で寝てたら風邪をひくぞって言ってるじゃないか。幾らでも寝させてやるから、とりあえずベッドに行くぞ、ほら」
 嫌がる詩瑠を無理やり引っ張り上げると立たせる。こうして近くで並んで立ってみると、随分と大きくなったものだ。昔は頭一個分くらいは差があった身長が、今はもう半分もないくらいだ。身長だけではない、体つきも最近はどんどんと大人びてきて、妹とはいえ、目のやり場りに困る。
 気がつけば、どうしたのという顔をして、詩瑠がこちらを見上げている。急いで彼女から手を離すと、僕はぶっきらぼうに、ほら、とっとと部屋に行くぞと彼女に背を向けて言った。もう、お兄ちゃんてば強引なんだからと、少し色っぽい声色で言う妹。どこで覚えたんだ、そんな言い方。
 さて、僕もあまり夜更かしはしてられない。明日は放っておいてとっとと寝ようと思った矢先、詩瑠に服の袖を掴まれた。家族に対しては、はっきりと物を言う彼女にしては珍しい、弱気な、まるで力のこもっていない、そんな感触に、僕はまた嫌な感覚を覚えずにはいられなかった。
 恐る恐る振り返れば、詩瑠はなんだか具合が悪そうに俯いている。
「どうした、詩瑠? どこか体の調子でもおかしいのか?」
「うん、なんか、ちょっと、体がだるいかも。もしかしたら、もう風邪ひいちゃったのかな、えへへ」
 袖を掴む手が滑り、僕の体へと寄りかかってきた詩瑠。その体は、まるでお風呂上がりのように火照っている。熱があるのは間違いないようだ。
「ごめん、お兄ちゃん。部屋まで、ちょっと手を貸してくれないかな?」
 可愛い妹の頼みを断れる訳もなく、俺は詩瑠の肩に手を添えた。