「僕の幸せな幸せな子供時代、そのにじゅう」


 彼女の姉が途端に喋らなくなったので、僕は彼女の日記を開いて中を見てみた。そこには、彼女が学校では見せなかった、そして下僕と公には憚りながらも時折垣間見せた少女の様な面でもない、理想的な女の子の日記が書かれていた。甘ったるすぎて胃が持たれそうな、小学生の頃の心を持ったまま少女が大人になれば、こんな風に育つのだろうと思わせる、そんな文章が紡がれていた。僕はそれを見て、なんだか初めて悲しい気分になった。けれどもそれは、彼女を失った痛みではなく、彼女が隠し続けてきた心の中にある孤独な闇を目にして、感傷的になっただけだった。僕にはまるで、彼女はこの日記を、自分の死に悲しむ父母の為に書いたように思えたのだ。自らの心境を告白する日記においてまで、自分の心をひた隠しにした彼女は、そうしてまた、何かを抱えたまま僕たちの前から唐突に姿を消したのだ。彼女の姉が真相を知りたがる理由も何となしに分かる。そもそも、歪ではあったけれども、僕だって彼女の孤独に魅了されて、彼女の傍に居た人間なのだ。
 日記を一通り読んだが、そこに僕の名前は一言も書かれていなかった。そして自殺に至るまでの経緯も書かれていなかった。触りの良い言葉で紡がれたこの文字の集合に、いったい彼女は何の救いを求めていたのだろうか。学校で友達の前で明るく振る舞う彼女、僕に密着して寂しげな眼をしながら荒い吐息を胸板に吹きかける彼女、そして少女の様な日記を家族の為に記している彼女。そのどれがはたして本当の彼女なのか。本当もなにもありはしない。ただそれは、人との付き合いの中で、彼女が見せた心の表層でしかないのだろう。だが、その表層の向こう側で泣いていた彼女に、僕はいったいどれだけのことをしてあげれたのだろうか。彼女を癒してあげられたのか。
 結果から言えば、僕は彼女に何も与えられなくて、そして彼女は死んでしまった、という事になるのだろう。けれども、彼女は僕にその多面的な性質を見せることを許していた。彼女は僕に、そんな自分の中にある本質的な孤独を受け入れて欲しかったのかもしれない。言葉には出さなくても心を開いてくれていた彼女に、僕はそれに十分には答えられていたのだろうか。
 自戒ばかりが心の中に渦巻いて行く。自己への卑しい憐みが、僕の心を容赦なく傷つけた。他者の死を自分の痛みでしか感じられないだなんて。
 僕は人間としてどうかしている。それすら悲しくて、僕は日記を閉じた。
「妹は、日記の中に貴方の名前を一文字だって書いていなかったの。貴方の存在を、妹は家族に隠していたのよ。彼氏がいただなんて、父さんも母さんも知らないの。ただ、私だけ、妹から写真を見せられて知っていた」
「それが何の意味があるかってことですか。ただ、彼女が貴方の事を信頼していたというその証拠、それ以上の意味はないんじゃないですか」
「そうでしょうね。それは、つまり、私が貴方の存在を、誰にも漏らすことがないという、そういう信頼でもあるわけです」
 彼女が姉を慕っている理由がなんとなく分かった。そしてこの人もまた、僕と同じで、孤独な彼女に心を開かれた一人に違いなかったのだ。
「ありがとう、貴方と妹について話せてよかったです」