「僕の幸せな幸せな子供時代、そのじゅうきゅう」


 入る時に確認したが、部屋の隣にはもう一つ部屋があった。それは恐らく彼女の姉の部屋だろうと僕は思っていたのだが、何故人が居るのだろうか。彼女の家族は全員が葬儀で忙しく動いているとばかり思っていたのだが。ふと、先ほど焼香を行った時の風景を思い起こす。そう言えば、この机の上に写っている写真の父母の姿は見たが、姉らしき人の姿は見ていなかった。
「あの、すみません。そこに、誰か居るんですか?」
 豪華な造りの癖に壁は薄いらしい、向こうから彼女の姉の声が聞こえてきた。写真の中にイメージの通りな、優しい声色だった。もしかすると泥棒かもしれないというのに、不用心に隣の部屋の物音に声をかける辺り、少し頭が足りていないのかもしれない。無視していれば、きっと大丈夫だろうと、たかをくくって僕は彼女を無視してベッドに寝そべった。
「もしかして、マサコの彼氏さんですか?」
 しかし、その言葉を僕は無視することはできなかった。いや、意識的に無視しようとすることもできたが、動揺という無意識の反応がそれより先に出てしまった。気付いた時には、沈黙が肯定を表す空気へと変わっていた。
 どうして分かったのだ。隣にいるのが男だと。僕は別に男らしい仕草をした覚えはないし、何か言葉を喋った覚えもないのに。どうして、壁の向こうの彼女の姉には、僕が男だと分かったのだろう。更に、彼女の彼氏かもしれないということまで。それはつまり、彼女の彼氏だったとしても、そうおかしくない年齢をしている、という情報を姉は知っているという事になる。
「そうですね、前に、写真を見せてもらいました。こんにちわ」
「……こんにちわ」
 これで彼女の姉が、どこからか僕を見ていることは決定的に明らかになった。それならそれだ。僕はもう開き直って、彼女の姉との会話を試みることにした。そうだね、まずは、彼女が彼女の姉だというのを確認しようか。
「お姉さん、ですよね。お話はかねがね故人から聞かされています」
「そうですか。私も、貴方の事は、妹からよく聞かされましたよ。妹は貴方の事をとても嬉しそうに語っていました」
 その彼氏という話は本当なのかと、僕は彼女の姉に尋ねようかと思った。けれどもそれを言ってしまうと、彼女の姉の中にある妹のイメージが壊れてしまいそうで、僕はやはり思いとどまった。居なくなってしまった人を傷つける必要なんてない。彼女が僕の事をそういう風に家族に語っていたのならば、それはそれで構わないではないか。どうせ、僕は彼女の下僕なのだし。
「父や母は、最期にマサコと会っていた人を探していました。男と会っていたのは、その、警察から知らされていたので。ただ、誰かまでは分からないようで。きっと、あの日の夜、貴方が最後に妹と会っていたのでしょう?」
 どうこたえるべきか迷って言葉が出なかった僕は、ただ黙って頷いた。すぐに壁の向こうで、そうですか、と、彼女の姉の少し寂しそうな声がした。
「もし問題なければ、あの日、何があったのか、教えてくれませんか?」
「何もありませんでした。本当になかったんです、変わったことは何も」