「僕の幸せな幸せな子供時代、その九」


 詩瑠が犬を飼いたいと言った次の日、僕がいつも妹と待ち合わせる公園に行くと、ブランコの前に薄汚いミカン箱が置いてあった。ブランコに詩瑠の姿はない。トイレにでも行っているのだろうかと、僕はブランコの前に自転車を止めると、その明らかに怪しい箱を見下ろした。もともと茶色い段ボールの箱に、更に濃い茶色な汚れが付着している。触れたいとはちょっと思えなかったが、僕は無性にその中身が気になって、段ボールの上辺を恐る恐るつまみあげて、その中を覗き込んだ。途端、箱の中から立ち上ってくる不快な匂い。二日くらい掃除しなかったトイレの様な、そんな強烈な匂いだ。
 箱の中には毛布がとぐろを巻いて置いてあった。そして、その真ん中に、人形か何かと間違いそうな程小さい、白色をした子犬が一匹眠っていた。
「あっ、お兄ちゃん、おかえりなさい。あっ、あっ、あぁっ、駄目です、見ちゃいけません。観ちゃだめ。その段ボールを見ないで」
「見ないでって。そういうのはもっと早く言ってくれよ。もう、中見ちゃったよ。なに、これ。もしかして、昨日言っていた子犬かい」
 残念そうに俯いて沈黙する詩瑠が、僕の推測が正しい事を言葉にせずとも告げていた。飼うのは駄目だとちゃんと言ったはずだが、どうやら詩瑠は我慢できずに、学校から子犬を連れてきてしまったらしい。はたして、彼女が家族に黙って自分の部屋で隠し飼うつもりだったのか、それとも無理やりに家族の反対を押し切って買うつもりだったのかは、その沈黙からは分からないが、彼女の中にある熱意が本物であるという事は確かなようだった。
「詩瑠。動物を飼うっていうのは、生半可な事じゃないって、昨日僕は言ったよな。それでもお前は、この子犬を飼いたいのか?」
「大変か大変じゃないかなんて、飼ってみないと分からないよ」
 確かにその通りだ。口でどうこう言っても、実感の伴わない物事では、今一つ相手には伝わらない。なまじ、生き物係なんていう仕事を学校でしているということも、彼女に家で生き物を飼うという大変さを伝えるのに、邪魔してくれたように思う。学校の行き届いた環境で動物を飼う真似事をするのと、実際に世話をするのとでは随分と具合は違ってくるというのに。
 とにかく、詩瑠に対してこれ以上、頑なに犬を飼う事を拒否しても無駄なようだ。そこまで言うなら、一度生き物を飼わせてみせて、その大変さを味わせた方が良いのかもしれない。なに、どうせ数日で音をあげるだろう。
「そこまで言うなら、詩瑠、少しの間だけ飼ってみるか?」
 えっと、呟いて、詩瑠は顔を上げると僕の顔を見た。不安そうなその表情に微笑みを返してやると、詩瑠はにんまりと笑って、ありがとうお兄ちゃんと、僕の体に抱き着いてきた。おいおい、喜ぶのはまだ早いって。
「ただし。お父さんとお母さんには暫く内緒だ。加えて、僕も詩瑠が犬を世話をするのを手伝わない。詩瑠、一人でお前がその犬を世話するんだ。それで、そうだな、一週間、二週間でも無事に飼えたなら、僕からお父さんとお母さんに掛け合ってあげるよ。いいか、一人で飼うんだぞ、誰も頼るなよ」
「うん、わかった!! 私、ちゃんと世話するよ、絶対に!!」