「僕の幸せな幸せな子供時代、そのろく」


 十時を過ぎたころだろうか、父さんが家に帰って来た。義務教育も終わろうという年頃の僕と違い、まだ眠気に抗いがたい年頃の詩瑠は、父が帰って来るのを待てず、すでに一人で自室へと向かって眠ってしまっていた。可愛い盛りの娘と会話できないのを嘆くような父ではなかったが、寝てしまったと告げると寂しそうに表情を陰らすのを見るたび、僕は少なからずやるせない気分になった。僕たち家族の事を真摯に愛し、文句も言わず朝早くから夜遅くまで真面目に働いている父さん。そんな苦労人の父さんを僕は素直に尊敬していたし、もう少し報われても良いように思っていたのだ。
「ただいま。おぉ、起きていたのか」
「おかえり。ご飯できてるよ。食べてきてないよね、今、温めるから」
 何も言わずに父は僕に背を向けると、玄関に座り込みスニーカーを脱ぐ。薄緑色の作業着の裾が今日も土色に汚れていた。父は建築士で、国内でもそこそこ名の通った住宅会社に勤務している。小学生の頃は、休日出勤になった父に連れられて、仕事現場まで連れて行ってもらったっけか。近くの公園に母と僕を降ろして、仕事に向かう父の背中を幼いながらに格好良いと僕は思っていた。父の様に、僕も将来は建築士になりたいとさえ思った。
 そうだ、そういえば進路に関する書類を出さなければいけないんだった。
 キッチンに来て、父の分のハンバーグが載った皿をレンジに入れた所でそんな事を思い出した僕は、急いで階段を上ると部屋に戻る。床に無造作に放り投げてある鞄の中から書類を取り出すと、僕はそれを握って再びリビングに戻った。すると、既にリビングにはテーブルに腰かけ、テレビを見ながら発泡酒を呑む父の姿があった。上半身はシャツ。くつろいでいらっしゃる。
「父さん、学校から進路についてのプリントが来てるんだけど」
「進路か。そうか、お前もそろそろそういう時期だな」
 面倒くさそうに頭をかくと、父さんは俺の方を向いた。そして無造作に手を前に差し出す。プリントを渡せという事だろう。父は余計な事を喋らない人間だ。さっき僕に言った言葉だって、父にしてはよく喋った方なのだ。
 父は僕から学校のプリントを受け取ると、さらりと流し見る。
「で、お前はいったいどうするつもりなんだ?」
「どうするって、進路のこと?」
「そうだ。将来どんな職業に就きたいとか、そういうの、あるのか?」
 そんな具体的な目標は今のところない。漠然と、父と同じように工業系の高校を出て働こうかとは思っている、それくらいだ。
「具体的には何もないけど。ただ、工業系の高校に行こうと思ってる」
「工業系? やめておけ、仕事なんてないぞ」
 何の逡巡もなく、父さんは吐き捨てる様に言った。なんだろうか、この空気。父さんなら、きっと、僕が工業系の学校に行くと言えば、喜んでくれると思ったのに。何か仕事で嫌な事でもあったのだろうか。
「金はなんとかなるんだ、大学に行っておけ。これから先の社会の事を思えば、大学を出ておかないと世の中に出ても役に立たない」