「母との遭遇」


 詩瑠は一度俺の方を振り返って微笑んだ。それは俺が封印していた記憶の中にあった、少しの屈託もない、純真な微笑みだった。なんて良い顔をして笑うんだ。詩瑠。そんな顔をして、お前はいったい何をしようと言うんだ。
 痺れる四肢にふりしぼった力を込めて、俺は立ち上がる。味噌舐め星人とミリンちゃんの待つ俺の病室へ、なんとしてでも向かわなければならない。詩瑠があの部屋にたどり着く前に。でも、どうやって。俺は別に妖怪でもなければ宇宙人でもない、ただの人間なのだ。詩瑠の配慮で死ぬことはなかったものの、高所から落ちたダメージは確かにあった。そんな状態で、今から病室に戻って、間に合うだろうか。間に合うはずがない。しかし、けれど。
 悩んでいる暇などないと、俺はゆっくりと病院の入り口へと向かって歩き出す。すると、前から駆けてきた何かとぶつかって、俺は尻餅をついた。大きさ的に人だろう。こんな夜中に、いったいこんな所で何をしているんだ。
「ごめんなさい、車から逃げ出したペットを探していて、暗くてよく見えなかったものだから。大丈夫、立てるかしら?」
「あぁ、大丈夫だ。ありがとう……」
 暗闇の中で目が合った。茶色い虹彩に軽く血走った白目に、二重の瞼。どこにでもある目玉だが、それでも、見た瞬間に気付いた。それが、俺の知っている人物の目だと。反応を見るにそれは相手も同じだったのろう。驚いたように半歩足を後ろに引くと、口元を隠して見せた。おかげで、支えを失くした俺の体は酷く揺れて、また倒れそうになった。ちくしょう、なんでアンタがここに居る。いや、今、ペットが逃げたと言ったっけか。なるほど、それならば、ここに突然コロ太が現れたのも納得がいくという物だよ。
「んだよ、アンタ、何しに来たんだよ。勘当中の息子が入院したからって、見舞いをするような柄じゃないだろ。えぇ、このクソババア」
「親に向かってその口のきき方はなんです。心配しなくても、お前の事を心配して来た訳ではないわ。ミーちゃんも詩瑠も、正月だというのに、病院に泊まり込んで家に帰らないというから、仕方なく来ただけのことよ」
 なるほど、するってぇと、親父も一緒に来ているのか。ふと、病院入口の前にある駐車場を眺めれば、ハイビームで辺りを照らす車が見えた。
「おふくろ、親子の縁を切った俺だが、悪い、アンタに頼みがある。いや、アンタと親父に頼みがある。俺を病室まで連れて行ってくれないか」
「私が素直にお前のいう事を聞くとでも? 勝手気ままに生きて、家族を傷つけてきたお前のいう事を、なぜ私たちが聞かなくてはいけないんです」
「五月蠅えよ、家族を傷つけたくないから言っているんだろうが。つべこべいわずに俺を上の階まで運べ。詩瑠と観鈴がどうなってもいいのかよ!!」
 言い合いをしている時間も惜しい。俺は母さんを威圧して、事を上手く運ばせようとした。そして、思い出す。こういう風に威圧すればするほど、この女はむきになって抵抗するのだということを。眉を顰めて、俺を小うるさい豚でも見るような目で睨み付ける母さん。どうしてこう、この女は自分が優位であることに拘るのかねと、呆れて俺はため息を隠すことなく吐いた。