「塩吹きババアの白昼夢」


 エレベーターの扉が左右に開く。蛍光灯に白く照らされた廊下と階段、白い手すりが俺の目の前に現れた。しかし、人の姿はそこにはない。おかしな話じゃないか。エレベーターは確かにこの階を目指して昇ってきた。俺はボタンを操作していないし、塩吹きババアがどうかした訳でもない。確かにエレベーターは呼ばれてこの階へとやってきたのだ。しかし、その呼んだはずの相手の姿が見当たらないというのは、いったいどういうことなのだろう。子供の悪戯か、それとも呼んだは良いが用事を思い出して部屋に戻ったか。まぁ幾らでも可能性はあるだろうが、やはりそこが、俺が気を失った病室のある階であるということを、意識しない訳にはいかなかった。何か、得体のしれないもの、そう、あの夕闇の少女に、俺は導かれたのではないのか。
「どうした、浮かない顔をして。何か気になる事でもあるのか、若者?」
 なんでもないよと、俺はエレベーターの閉じるボタンを押そうとした。押そうとして、ふと、ある事に思い至った。あの夕闇の少女が幽霊だというのならば、同じような存在である塩吹きババアならば、何か分かるのではないだろうか。例えば、あれが本当に幽霊だったのかであるとか。もし、首尾よく事が進み、俺とあの少女の関係でも分かれば、幾分とこのエレベーターに乗るたびに感じる、なんとも引っ掛かる気分を払拭してくれることだろう。
「およ、なんじゃ、下に向かっていたくせに、上の階で下りるとは。あぁ、なるほど、さては頭があまりよろしくないんじゃな。いつぞやお前さんの部屋に世話になった時にも、暮らしぶりをみて、こやつも嫁さんもまとめて阿呆かと思っていたが、そうかそうか、これでなんとも納得がいったわ」
 煩い、良いから黙ってちょっとついてこい。なんだと、それが人に物を頼む態度かと、塩吹きババアは俺に突っかかって来たが、妖怪だからいいんだよと彼女の言葉を無視して、俺はエレベーター降りた。寿命を迎えて、明滅を繰り返す蛍光灯の下を潜り、灯りのない開け放されたドアを横切って、どんどんと、俺は廊下を進む。目指すは、夕闇の少女が居たあの病室。
「なんじゃ気味の悪い所じゃのう。化け物でも出そうで、ちと怖いわ」
 俺はお前がそんなことを言うのが怖いよ。なんじゃと、と、食いかかろうとした塩吹きババアを制して、俺はここだ、と、小さく呟いた。何が、と、塩吹きババアが部屋を見る。一瞬、その瞳が大きく開かれたのを、俺は見逃さなかった。どうやら、この病室に、何か問題があることは間違いない。
「ふむ、なるほど、なるほど。ここに連れてきたかったのか……」
 その表情、なにか、あるんだろう。知っているなら、分かるなら、教えてくれないか。頼む、俺には、どうしても、この部屋についての情報が欲しいんだ。どうしても、この俺の中にある違和感の謎を解き明かしたいんだ。
「違和感? そんな物を感じられるの、お兄ちゃん。白昼夢を見ながら違和感を感じられるだなんて、それは凄いことね。少し見直したわ」
 夕闇の少女の声。どこから聞こえたの分からない、いや、分かったが、信じたくなかった。だって、それは、目の前の白い女の口から聞こえたから。
「けどね、感じるべき違和感は、もっと別の所にあるのよ、お兄ちゃん?」