「ミリンちゃんと小説」


 暗い部屋の中で俺は目を覚ました。体が妙に火照って、病院服が汗に濡れて重くなっている。そして消えない人肌の感触と、夕闇の少女の舌の感触。悪夢だったのか、それとも現実だったのか、どうにも分からない。仮に、現実だとしても、やはり彼女は幽霊なのか、それとも実はませているだけの少女なのか。混乱した視線が答えを求めて闇の中をさまよう。時刻は午後の六時。夕闇から抜け出した街が、死人のように冷たく佇む時間だった。
 お兄ちゃん、頼まれた本を、持ってきたのです。病室の扉が開いて、白色の蛍光灯の灯りが部屋に差し込む。立っていたのは、先ほどの夕闇の少女によく似たミリンちゃんだった。こうして、あの幽霊の姿を見た後に、妹を見れば、似ているのがよくわかる。髪型や服装こそ違うが、鼻の高さ目の造りなんていった人間固有の特徴的な部分が、まったくもって瓜二つなのだ。あるいは、俺はあの少女の幽霊に、ミリンちゃんの姿を重ねているのかもしれない。あれは俺が作り出した、理想の妹の姿なのかもしれない。だとしたらなんて手におえない変態なのだろう。妹とキスしたいなんて、男としてどうかしている。とてもじゃないが、そんなのは健全とは言えない発想だよ。
 お兄ちゃんどうかしましたか、お顔が少し青いですけど。もしかして、何処か具合悪いのですか。看護婦さん呼んできましょうか。いや、良いよ、大丈夫だ、ちょっと悪い夢を見ただけだから。俺が笑ってごまかすと、ミリンちゃんは安心して胸をなでおろした。そして俺のベッドの横に腰かけると、鞄の中を探って、二冊の本を僕に手渡した。それは、先日俺が砂糖女史から受け取った小説と、昔から愛読している小説の上巻だった。どちらも、ちょうど読みたいなと思っていたものだけに、そのチョイスには少し驚いた。よく俺の読みたい物が分かったな。えへへ、と、ミリンちゃんは微笑んで、お兄ちゃんは昔からこの本が好きでしたから、きっと、読みたいだろうなって思ったのです、と、その赤のカバーがかかった本を持って呟いた。そしてミリンちゃんはもう一つの本を手に取る。こっちはちゃぶ台の上に置かれていたから、きっとお兄ちゃんは、まだこれを読んでる途中だったのだろうなって、思ったのです。だから持ってきたのです。なるほど、なんとも分かり易い推理だね、聡明な妹を持つと助かるよと、俺はどうにも皮肉っぽい口調で妹を褒めた。俺のなんだか芝居がかった口調が気に入らなかったのか、褒めてやったのに不満そうに妹は頬を膨らませた。なので、仕方なくその小さな頭を俺が撫でてやると、彼女は無垢な子犬の様にくすぐったそうに身もだえをした。もう、お兄ちゃんくすぐったいのです。やめてくださいなのです。
 もう一つ、彼女が手に持っていたビニール袋を、ミリンちゃんはベッドの横にあるテーブルの上に置いた。中に入っているのは、まだ暖かさを感じさせる弁当だった。俺と、ミリンちゃんと、ミリンちゃんのお姉ちゃんの分。俺のリクエストにしっかり答えて、弁当の一つはかつ丼だった。残り二つの内、大きい方は味噌カツ弁当、小さい方は三つのおにぎりにたこさんウィンナーとポテトサラダのついた、可愛らしい弁当だった。誰がどれを食べれば良いのか、これほどわかり易い品ぞろえもそうそうないだろう。