「夕闇色と現実の境界」


 妹は僕の布団の中に潜り込んできた。そうして、僕の腋と首に手を回して強く上半身を締め付けた。僕の首元に伝わる冷たい肌触り。まるで柔らかい氷にでも触れているようだ。しかし、どこか優しい温かみも感じる。
 どうして僕の妹はこんな不思議な感触なのだろうか。どうして僕の妹は幽霊なのか。寝ぼけた僕の頭ではそれはどうにも分かりそうにはなかった。
「ねぇ、お兄ちゃん。そろそろ私の事を思い出してくれたかしら。私の名前を思い出してくれたかしら。思い出したわよね、だって、もう二回も私はお兄ちゃんとシテるんだもの。王子様の呪いだって解けてるはずだわ」
 名前を思い出す、って、どういう意味だい。僕は、君の名前なんて知らないはずだけれど。けれども、何故だろう、確かに言われてみると、僕は君の名前を知っているような気がする。目の前にいる、名も無い妹の名前を知っているような気がする。そのひっかかりが、僕が彼女の事を懐かしいと感じた原因であり、ミリンちゃんと僕の既視感の正体なのではないのだろうか。
 期待に満ちた声とは裏腹、虚ろな瞳を僕へと向ける少女。その瞳の奥には魂も感情も入っていない。まるで彼女の瞳の中はブラックホール、はたまた光も差さぬ無間地獄。得体のしれない何かと直結しているみたいに見えた。
「ごめんよ、まだ、僕は君の名前を思い出してはあげられないみたいだ」
「そう、残念ね。まだ、足りていないのね。魔女の呪いは協力なのね」
 暗い瞳を瞼で覆って残念そうにつぶやいた彼女は、僕の胸の中へと顔を埋めた。僕の中で穏やかではないざわついた感情が駆け巡る。なぜ、僕は彼女の期待に応えたやれないのだろうか。彼女の名前を知らないことが、なんだかとても恥ずかしい事であり、とても悪いことであるように思えてどうしようもない気分になった。実の妹の名前を忘れるなんてことがあるだろうか。
 味噌舐め星人にしたってそうだ。アレの名前も、僕はろくに思い出せないじゃないか。そんな事で良いのだろうか。兄として妹の名前を忘れるだなんてこと、たとえそこにどんな理由があったとしても、やっちゃいけない事なんじゃないだろうか。体を支えるべくベッドのに突き刺さった腕。その先の五本の指がシーツを掻いた。自己嫌悪に、また、目の前の妹とキスをしたくなる。どうしようもないダメ人間だね僕は。どうしようもない駄目兄貴だ。
「お兄ちゃんだけが頼りなのよ。ミーちゃんは、まだ、小さかったから、私の事なんて分からないの。お父さんとお母さんは、今の幸せな家庭しか望んでいないから、見ないから、私のことなんてとうの昔に忘れているの。だから、ね、お兄ちゃんだけなのよ。お兄ちゃんだけが、私をいつまでも、心の片隅に置いていてくれているのよ。私の為に壊れてくれたお兄ちゃんだけなの、私を覚えてくれているのは。だから、きっと、思い出してね、私の事」
 名前だって出てこないのにかい、と、僕は、情けない気分を押して彼女に尋ねた。彼女は少しも驚いた様子もなく、健気に笑うと、ゆっくりと僕の体から離れた。そして、銀縁の窓にもたれかかり、夕闇色に染まった風景を背にすると、力なく笑って、頭から、外へと落下していったのだった。
「大丈夫、お兄ちゃん、すぐに、何もかも忘れて、何もかも思い出すわ」