「夕闇の少女の再来」


 ミリンちゃんが病室を去ってしまってから、俺は暫くあの少女についての考え事をしていた。どれだけ考えても分かりはしないであろう彼女の正体について、真剣に考えていた。幸いなことに、俺たち家族は仲が悪いが、誰かが大病を患うようなことはなかった。おかげで母親は少しもしおらしい所もなく、家族に対して分け隔てなく高圧的に振る舞ってくれたし、親父は親父で独善を極めたような発言しかしやしない。理想も突き詰めすぎれば息苦しい、そんな理想的過ぎてどこかに人間らしい何かを置いてきてしまった、危うく脆い家族が出来上がったのだから、健康という奴には感謝しなくちゃいけないんだろう。今こうして、俺が入院していても、人間らしくなにかにつけて見舞いに来るのが、娘のミリンちゃんただ一人なのだから、手には負えない。もっとも、それは入院しているのが俺だからかもしれないが。閑話休題。とにかく、そんな完璧な家族に、病院に来たという記憶があるはずもなく、ミリンちゃんの言った病室に対する既視感を上手く説明することは、俺にはできそうになかった。少女に対する既視感に関しても、たしかにミリンちゃんに似てはいたが、だからどうした、ということで。なぜ似ているのかという因果関係を立証しうる記憶や事象を、俺が持っている訳でもない。
 思考が酷い方向に流れてる。きっと疲れたのだろう、少し眠ることにしようか。赤い夕暮れに染まった城を少し眺め、俺が目を閉じようとした時だ、ふと、小さくローラーの回る音がして、何者かが部屋に入ってきた。
「今晩はお兄ちゃん」
 小さく開いた隙間から夕闇色の少女がこちらを向いて微笑んでいた。
 いや、もう夕闇色の少女ではないか、夕闇色の少女の幽霊だな。
「どうして来たんだい。どうしてここが僕の病室だって分かったんだい」
「あら、おかしいなお兄ちゃん。家族のお見舞いに来ない人なんていないでしょう、家族の入院場所を知らない人なんていないでしょう」
「どうかな、僕たちの母さんは、今もきっと、そんなこと関係ないわという顔をして、ラジオ番組でも聞いているような気がするけど」
「そうね、あの人は今頃、宮部みゆきの小説を読みながら、中島みゆきの歌でも歌っていそうね。似たような、名前は、いくつもあるけど、私じゃ駄目ね、ってね。ねぇ、どうかしらお兄ちゃん、私の歌、似ているかしら」
「似ていると思うよ、母さんよりは」
 夕闇の少女は笑って、その小さな足でリノリウムの床を踏み鳴らすと僕の方へと走ってきた。そして、小動物のような身軽さで、ベッドの上の僕にとびかかると、いきなりその小さな唇を僕の唇に重ねた。粘質な液体によって潤っていて、若々しい張りのある、あまりにも肉感的で、鮮やかな桃色が想像できる肉の感触が、僕の唇を割って構内へと入ってくる。侵入してくる。
 窒息しそうなほどお互いの舌を絡めた僕たちは、ゆっくりと顔を離す。
「ねぇ、なんで僕にキスをなんてしたんだい。僕は今日は悲しんでないよ」
「悲しくて忘れたい時には、フレンチキスを。煩わしくて忘れたい時には、ディープキスをするものなのよ。知らないの、お子ちゃまね、お兄ちゃん」