「塩吹きババアは嘲笑う」


 白い頭というのには様々な意味があった。彼の頭髪が老人のように白かったという事もある。彼の肌が病的に白かったという事もある。まるで全ての生気を失ったかのように力なくしなだれる男の子。生命力に溢れている年相応の少年らしい面影は、彼の中には存在していない。老い、疲れ、絶望。そんな言葉ばかりが思い起こされるほどに、彼は酷く病んでいるのだった。
 彼だけではない。彼の横にある部屋のベッドには、彼よりも多いチューブを挿された老人が、半目を開いて白塗りの天井を見つめている。その瞳には光がなく、まるで黄色いセメダインで固めたように、瞼との境には黄色い目ヤニができていた。彼がその視線をこちらに向けることはあるのだろうか。おそらくないだろうなと、誰もが即答できてしまう停滞感がそこにあった。さらに老人の正面の部屋には、長い頭髪をメデューサのようにかき乱した中年女が、その憎悪をぶつける先を求めて視線を彷徨わせていた。荒れた肌と汚れた衣服。ごっそりと抜け落ちた長い髪が散乱するベッドで、彼女は泣くでもなく激昂するでもなく、首を振りその絶望を届ける相手を探していた。
 わかったかい、つまり、そういう事だよ。ここはね、癌病棟、しかも末期癌患者が集まってる階なんだ。訪れるのは親族くらい。出歩く余裕のある患者なんてのはいやしない。特に、子供なんてのはね、この階に居る子も少ないし、たとえ居たとしても元気な子なんてまず居ないんだ。残念な事にね。忌々しげに視線をリノリウムの床へと逸らした初老の女。俺はなんとも言えない嫌な気分になって、彼女と同じように視線を床へとずらした。
 これで分かっただろう。ここには誰も居やしないし、この階にはこの部屋に遊びに来れるほど元気な子は居ないんだよ。万が一に、上の階から遊びに来た子という可能性もないにはないが、それにしたって、そんな娘がここに入り浸ってるなら、看護婦の一人くらい気がついても良いものだ。じゃぁ、あの日、俺が経験したことは、見たものはいったいなんだったというんだ。説明がつかないじゃないか、貴方の話では。俺はあの日、確かにここで少女と出会って、そして、そして。そして、と、彼女と俺の間にあった出来事を目の前の老いた看護婦に話すのには、少女との艶めかしい記憶を語るには、俺には勇気という物が足りていなかった。とても話せる内容ではなかった。
 老婆は、一度ため息をつくと、その皺の多い顔を上げて、俺に憐れむような視線を向けた。アンタ、この部屋で何を見たのか知らないが、忘れた方が良いよ。こんなことを言うのはね、本当はよくないとは思うんだが。この階はね、そういう明日をも知れぬ人らが多く居るからね、どうしても呼んじまうらしいんだよ。霊とかそういう眉唾なやつをね。私も、ここに居る娘も、多かれ少なかれ不思議な思いはしてるんだ。老いた看護婦に促されて、若い看護婦が頷いた。科学の粋を集めた病院で、まことしやかに霊の存在を肯定してしまって良いのだろうか、と、思ったが、そうでもない限りは、説明のつきそうにない事実だけに、俺は押し黙った。多分に、俺が塩吹きババアという、幽霊もどきな存在を知っているのもあっただろう。あの日、この病室で見た、夕闇色の少女は、幽霊だったのだと、俺はそう結論付けた。