「夕闇の夢」


 看護婦が帰っても味噌舐め星人が起きる気配はなかった。ゴネ得を狙ってケーキケーキと、看護婦が帰り次第煩く言ってくるかと思ったのだが、どうやら眠気の方が勝ってしまったらしい。足元で眠っている彼女の姿を、俺はここ数日嫌と言うほど見てきたが、こうして、少し離れた所で眠っている彼女の姿を見るのは、初めてだ。危なっかしく、パイプ椅子からその身をずり落としそうに何度もなりながら、味噌舐め星人は涎を垂らして眠る。良い夢でも見ているのか、心地その表情はなんだか楽しそうに俺には見えた。
 味噌舐め星人が眠ったので、俺はテレビを消した。そして、彼女を起こさないようにゆっくりとベッドの上で寝返りを打つと、何か暇を潰すのに持って来いの読み物でもないかと視線を病室にさまよわせる。持ってきていないのだから、買ってきていないのだから、必然、そんなものはあるはずない。味噌舐め星人が居るならば、話し相手に退屈することはないだろうと思い、売店で何も買ってこなかったのが完全に裏目に出た。これはもう、寝てしまうしかないなと、俺は枕を引き寄せて首の裏に添えると目を閉じた。
 そうして五分も経っただろうか、朝早く起きたからか、思いのほかすんなりと、俺はまだら色をして曖昧な夢の世界にまどろんでいた。まぶたの裏と心象世界が交互に切り替わる、映像を見ながら、俺はふと、昨日店長の見舞いの帰りに出会った夕焼け色をした少女の事を思い出していた。あの少女はいったい何者だったのだろうか。何者も何も、行動だけを見ればただのマセた少女に他ならない。だが、なぜだか俺はそんな彼女の事が気になった。得体の知れない、この世の物ではない何かの様な、神秘的な魅力を感じずには居られなかったのだ。こんな足でなければ、また会いに行くというのに。
 そんな事を考えていたからだろうか。いつの間にか完全に俺の目の前に展開されていた心象世界は、夕闇色に染まっていた。夕焼け小焼け。昔俺が住んでいた街並みが皆オレンジ色になっている。どうして、よりにもよってしばらく帰っていない故郷の風景なのかは、俺にはちょっと分からなかった。もしかすると、朝、親父が俺の部屋を訪ねてきたからかもしれない。夢の中だというのにため息を吐いた俺は、ふと、その風景の中に、病室の少女の姿がないかと気になり視線を巡らせてみる。すると、驚いたことに、昔俺がよく遊んだ公園の中にそれらしき姿を俺は見つけた。ブランコに座り宙に足を揺らしている少女、に、似た者の姿を俺は夢の中で見かけたのだった。
 それは、白いワンピースに黒く長い髪の毛を鎖と共に靡かせる幼い少女。
 少女がこちらを向いた。年相応の、邪気を感じさせない気持ちの良い笑顔を見せると、ブランコを飛び降りて彼女はこちらへと賭けて来た。おかえりなさい、お帰りなさいお兄ちゃん。あのね、あのねぇ、私ね、待ってたんだよ、待ってたの。お家に帰ってもお母さん居ないし、お兄ちゃんが学校から帰ってこないとつまらないから、私、ここでお兄ちゃんが帰ってくるの待ってたんだよ。偉い、ねぇ、偉い。君くらいの年頃の子が、こんな時間まで公園で遊んでいるのは、ちょっと危ないよと俺は思ったのだが、気づけば夢の中の俺は彼女の頭をゆっくりと、ほめる様に優しく撫でるのだった。