「魔法少女風味ミリンちゃんのお兄ちゃんは引っ越した」


 親父は何も言わずに俺を見ていた。本当にそのまま帰って行きそうな、そんな雰囲気だった。なんだよ言いたいことがあるなら早く言えよ、なんて、軽口も無駄に叩けないそんな視線を感じて、俺は、少し身震いした。親父は語る代わりにゆっくりと自分のスーツの胸ポケットから手帳を取り出すと、そこから一枚神をちぎって俺によこして見せた。なんの変哲もない、青黒い罫線が引かれたノートだ。そこに黒い文字で書かれていたのは、何やら地図のような絵だった。はて、何処だろうか、目印等の情報が一切かかれていないので、描かれている地図がどこに当たるのか皆目見当がつかない。道の感じから、どうやら、駅前に近い所というのは間違いなさそうだけれど。
 ミリンちゃんの頼みで、お前のアパートを引き払った。荷物は適当にまとめてそこの住所に送っておいた。退去費も支払済だ、退院したらその住所の建物に行け。そこなら、多少足が不自由でも、何とか暮らせるだろう。親父はそう言うと、俺にその寂しい背中を向けて病室から出ていこうとした。おいおい、ちょっと待てよ、それはどういう事だ。なに勝手な事してくれてんだよ、俺のアパートを引き払った、だと。ふざけんな、俺はあれでいて結構あの安アパートは気に入ってたんだぞ。それを、当の本人に何の断りもなしに。仕方ないだろう、当の本人はつい昨日まで寝ていたんだから。確かに親父の言う通りで喉が唸る。けれども、なんだってそんな気の早い。俺は足を怪我してはいるが、日常生活に支障が出るほどの大怪我ではないんだぞ。
 ミリンちゃんの奴がな、お前をどうしても助けてやりたいと、五月蝿く言うのでな。病室の扉に手をかけて、今にも出て行くという体勢で立ち止まった親父は、何か言いづらそうな口調でそう俺に言った。ミリンちゃんが、俺の為に。少し前なら考えられないことだけに、俺の驚きも一入である。俺でさえ驚くのだから、ただ、一方的にミリンちゃんから与えられた、俺に対する憎悪の言葉に基づいて行動している我が両親には、ショックなんて物ではなかっただろう。おおよそ理解に苦しむ行動に感じられたに違いない。なにより、いつも毅然として、必要以上の行動を行わない、戸惑うという事を知らぬという風の親父が、こうして俺の前で逡巡してみせた事が、両親達の混乱を物語っていた。まったく、これだから、この両親供ときたら。
 今回は、ミリンちゃんがどうしてもと言うから特別に行動したまでだ。私達は今後もお前の人生に干渉するつもりは毛頭ない。家はくれてやる。要らないなら土地ごと適当に売り払って好きな所に移れ。すべてお前の好きにしろ。言われなくてもそうさせてもらうよ。まぁ、折角だから暫くは住ませてもらうがね。俺が言い終わるより早く、親父は病室の外に出ていた。俺の返事などどうでも良いってか。まったく、そんなだから葬式に行きたいともてめえらの息子は思わないんだよ。俺は腹の虫が収まらず、テーブルの上の食器類を彼の去った扉に向かって投げつけようかと思ったが、一転、まずい飯だというのに腹の虫が鳴いたので、すべてなかったことにして、綺麗さっぱり忘れてしまうことにした。いや、俺の体を心配してくれたミリンちゃんにはお礼を言わなくちゃいけない。それだけは、覚えておく事にしよう。