「紅色の少女の悪戯」


 彼女はそう言って蹲った僕の顎先にその小さく柔らかい手を這わせた。擽るような感覚に顔をあげれば、彼女の顔が近くにあった。ガラス玉の様な目をした彼女は、仏のように慈悲深く微笑むと唇を開く。すぅと、息を吸い込めば、まるで海に潜るように顔を更に僕に近づけ、僕の唇に唇を重ねた。
 唇の先を包むような柔らかな感触に僕の頬が熱くなる。濡れた瞼が痙攣して、息が止まった。あれだけ激しく僕の中を駆けめぐった悲しみも、僕の喉を襲った嘔吐感も、すべて、なにもかも忘れて、僕はその溶けてしまいそうな彼女の唇の感触を堪能した。それは本当に、ただのフレンチキッスだったが、なぜだろうか、僕はいつまでも彼女とそうしていたいと思った。
 涙が僕の瞳から零れ、頬を伝って唇へと落ちた。唇の先が潤い、艶かしい感覚に変わる。どこかに飛びそうになる理性をどうにか抑え込んで、僕は、プールから顔を出すように、目の前の少女から唇を離した。僕に唇を預けている間、ずっと、目を開けていたのだろうか。目を開けば、彼女は僕をその澄んだ瞳で見つめていた。真っ直ぐな、射抜くような目で、穏やかな顔で。
「どう、お兄ちゃん、忘れられた?」
 あぁ、けど、今度は違うことが忘れられなくなりそうだよ。と、僕は言っていた。そんな事を言うのは人間としてどうかしていると思ったけれど、僕はそう言わない訳にはいかない気分になっていた。なんだかそう、本当に、彼女とのこの行為で、僕は救われたような、そんな気分になったのだ。もう僕の体の中には、少しだって悲しみなんて感情は残っていない。いや、店長があんな目にあった悲しみは、悲しみとして存在している。しかし、その悲しみに囚われることは、僕はもうないような気がした。これで、僕は前を向いて明日から生きていけるような気がした。居た堪れない店長の姿を見て、僕は涙を流すだろうが、心まで壊すことは無いように、そう、思った。
「うん、大丈夫そうだね。よかったわ。また、つらくなったら来てね。いつだって、私、お兄ちゃんの力になってあげるから」
「……どうして君は、僕にこんな事を。いや、どうして君は、僕に優しくしてくれるんだい。おそらく、僕は君とは初対面だと思うし、もし、僕が忘れてしまっただけで、君が僕の事を知っていても、とても、こんな事をするような関係では、僕達はないように思うのだけれど」
 彼女はそれに何も答えず、ただ、意地悪そうな笑顔を夕日の中に浮かべていた。そして、ゆっくりと自分のベットへと戻ると、まるで僕に興味を失ったようにベットの上に仰向けになると、そしてそのつぶらな瞳を閉じた。すぐに聞こえてきた穏やかで微かな吐息に、僕は少なからず精神的なショックを受けた。ショックを受けたが、一方で、これ以上彼女と言葉を交わした所で、この悲しみとは別の、また奥深く暗い悲しみの洞穴の中に迷い込んでしまいそうにも思えて。僕はこれが潮時なんだろうな、と、彼女に背を向けると、大きく開けている病室の扉の方へと向かって、車椅子の置いてある方向に向かって歩き始めた。車椅子に乗って、僕は俺の居た部屋に戻るのだ。
 足が刺すように痛んだ。足元を見れば包帯に黒い血が滲んでいた。