「惨劇ー3」


 カッターの男が急に黙った。彼もまた、後ろに立つ相棒の様子が変わったことに気がついたのだろう。ゆっくりと後ろを振り返った彼は、その妙に涼しげな目をした仲間に、おい、どうしたんだよ、と、声をかけた。喉が静に鳴る。今の今まで沈黙を守っていた男が、この事件の中心にいながら、なんの感情も感じさせない目をした男が、いったい仲間の問いかけにどういう返答をするのか。男への興味と恐怖が俺の中で混ざりあい、騒ぎ立てる。
 いや、なんでも。男の口から出た言葉は、やはりそんな普通の台詞で、この非日常の中にあって、背筋が凍りそうな程、落ち着いた物だった。男はそういって振り返ると、その言葉と同じくらい静で妙に整った足取りでコンビニの入り口へと向かって行く。なんともあっけない、そして、歯切れの悪い幕切れに、俺は顎を斬られた憤りも、彼らに植え付けられた恐怖も忘れて、釈然としない思いになった。まるで息を吸って吐くように強盗をしやがる、何様なのだ、この強盗様は。ふざけるなよと、気づけば腕に力が入る。
 その時、ふと、俺に背を向けた男が何ごとか呟いているのに、俺はやっと気がついた。レジから彼が居る入り口付近は遠く、姿から何か言っているのは分かっても、声が小さくてよく聞こえない。集中して耳を済ませば、聞こえるだろうか。いや、そもそもそこまでして聞くべき事だろうか。強盗犯の独り言を気にした所で、いったいそれがどうなるって言うのだろう。自分の利益になるとはおとても思えない。不毛だ。俺は、どうにか冷静かつ理性的に自分の感情を押し止めようと試みた。しかし、一度芽生えた好奇心を処する事はできず、気がつけば俺は視線と共に彼の声に神経を注いでいた。
 愚かだね、人間って奴は。身の危険を察知すれば、簡単に自分なんて捨てて命乞いする癖に、安全圏に脱出したと思えば、すぐに本性を出す。何も解決できていないっていうのに、別に嵐が去った訳じゃないんだ。問題の本質は弱い自分という所にあるっていうのに、なんでそれに気がつけないんだろう。弱い癖に、そうやって、世間に噛みついたりしたら、駄目じゃないか。弱者は、噛まれないように身を守らなくっちゃ。それは、噛んでも良いよって言っているようなものだよ、噛みもしないのに、噛む気もないのに、そんな顔しちゃ、駄目だろ、駄目だよ、なぁ、君ぃ、レジの中の君ぃっ。
 いつしか男の声ははっきりと俺の耳に届いていた。自動ドアのガラスに映るのは、男の、憤怒とも嘲笑とも分からぬ、表情の浮かんだ顔だった。ついさっきまで彼の顔に張り付いていた平静の仮面は、音もなく砕け散って、いよいよ本性を表した狂気が、そこにはあった。先ほどカッターで切りつけ等れた時よりも、幾分激しい恐怖が俺の足先から頭の先を駆けめぐる。まずいこれはまずい。どうまずいのかも分からない、本能的で暴力的な危険を察知した俺だったが、彼から目を逸らすのも、彼に謝るにも、もうなにもかもが遅かった。毛深いパーカーの袖の中から重厚な西部劇にでも出てきそうな拳銃を取り出すと、彼はそれを僕に向ける。モデルガンなんだろう、とは思えない。彼の手に握られたそれには、おもちゃとは違う武器の冷たさのようなものが感じられ、俺は押し黙った。足元には死の影が迫っているのだろう。