「味噌舐め星人の茫然」


 間の長さに耐えられなくなって唾を飲み下した。自分の部屋の前に立っているだけだというのに、訳の分からない緊張感に俺の体は強張っていた。
 この扉を開けて、部屋の中を覗くのが怖い。何故怖いのかは分からない。強いて言うならば先ほどの映画と同じだ。間の怖さ。何気ないカットの中に忍び寄る、得体の知れない物たちの気配。この薄い扉を隔てた向こうで、何かが行われているのではないかと、そういう不安を俺は感じたのだ。何が恐怖なのか分からない恐怖。あんなくだらない映画を見るから、そんな事を思うのだ。味噌舐め星人ほどではないが、俺も随分と怖がりさんのようだね。
 なに、返事がないのは、きっと味噌舐め星人が寝ているからだろう。そう結論付けて、俺は扉のドアノブを回すと、手前にそれを引き寄せた。ゆっくりと開けていく部屋の風景。出て行く前と同じ間取り、散らかりっぱなしの床に、黄ばんでいて飾りっ気のない壁。どうしようもない、一人暮らし男性の空気を存分に醸し出している、そこは紛れもなく俺の部屋だった。ある一つの奇妙な女の存在を除いては。奇妙なポーズをとった女を除いては。
 何をしているんだ、と、俺は、深い闇色を映し出した窓ガラスに手をつけて、外を眺める味噌舐め星人に声をかけた。彼女は俺の悪戯にも反応せず、俺の言葉にも反応せず、ただ、ガラス越しに見える夜にとっぷりと落ち込んだ世界を俯瞰している様だった。発作だ、あの日、妙な女が俺の家の窓から飛び出した日から、今日の今日まで続いている、彼女の奇行だった。まさかこんな急に始まるだなんて、今までの流れを無視して、彼女がこの状態に陥るだなんて、俺は予想もしていなかった。いや、予想できなかった。師走商戦の前哨戦で、ここ最近帰る時間が遅く、彼女の事など構っている余裕は俺にはなく、帰ってきた彼女がそうなっているという事実しか知っていなかったのだ。朝早くに家を出る時にはいつもの感じだった彼女が、深夜に帰宅するとそんな感じにおかしくなっている。ただ、それだけの認識しか、それくらいの知識しか、俺は彼女の奇行に対して持ち得ていなかったのだ。
 お兄さん、今日は、外暗いですね、明日は、雨でしょうか。ぽつぽつと、雨音のような些細な声で味噌舐め星人は言った。瞳は暗い闇を見つめて離れない。まるで、寝言のようなそんな言葉。彼女の妙な雰囲気に、どう答えていいのか返答に困ったが、あぁ、と、しばらく間を置いてから、彼女に言ってみた。すると、彼女は興味なさげにそうですかとつぶやいて、まただまりこんだ。暗い暗い、光の入っていこない窓に手を当てて、闇の中に何かを探し求めているように、視線をさ迷わせる。静かな吐息を立てて、眠っているように、彼女はそうして、窓辺に立っていた。俺は、部屋の扉を音もなく閉めると彼女の隣へと向かった。彼女がいったい何を見ているのか、何を見ようとしているのか、俺は知りたくて、彼女が覗く窓の前へ移動した。もしかすると、近くにいけば、その闇色の中に何者かの姿を見出すことができるのかもしれない。そんな風に思って俺は彼女の隣に立ち、窓越しに見える街並みを見下ろしたが、月の光もない夜の世界は、境も曖昧に闇に溶け込んで、ただただ、俺の視線と意識を途方もない彼方へと彷徨わせるだけだった。