「B太とジャズ」


 多くのミュージシャンを雇い、養い、世の中の流行を担ってきた人物の言葉は重く、その表情には気迫と共に確信の様な物があった。おそらく彼は、B太の才能を買っているのだろう。きっと売れると思っているのだろう。音楽のセンスに乏しい俺には、どこが凄いのかどうもよく分からないが、社長の耳にB太の演奏は、充分に世間で通用するように聴こえたに違いない。
 まぁジャズと言うか、ウチが力入れてやってるのはフュージョン的な物だけれどね。綾戸智恵とか例外は居るけど、日本ではジャズミュージシャンって一般的に名前を聞かないでしょう。まぁ、最近はフュージョンも人気ないんだけれど。とにかく、君はそのギターの腕で勝負するべきだ。歌詞だの顔だのは二の次だよと、私は言いたいんだ。あまり国内需要の無いジャンルだけれども、君の腕前を存分に発揮するには、ジャズしかない。どうだい。
 どうだい、と、言われましても。俺、ジャズはちょっと分からなくって。よく聴く音楽だって、ロックばかりだし。いきなり、ジャズをやれって言われても。ちょっと、困ります、というか、上手くやれる自信がないっす。落胆かそれとも不安か、はたまた謙遜か、渋面のB太は、自分の膝に視線を落とすと、いつになく力のない口調で言った。仕方ないだろう。今まで、ずっとやってきたロックならば、経験が後押ししてやりますと言えるかもしれない。しかし、いきなり他の事に才能があるなんて言われても、やった事がないのだから、自信も経験も何もないのだ。ただ、都路社長の言葉だけを信じて、自分はジャズができると思い込めるほど、B太も人間も強くはない。
 そうだろうね。いきなり、言われても困るだろうね。分かった、返事はまた今度良いよ。しばらく考えて、もし、やれると思ったなら、私に電話しなさい。環境はすぐに整えてあげるから。といっても、いきなりスターだとか売れっ子にになれるなんて思わないこと。ポップスの世界と違って、演奏の実力だけが物を言う狭く厳しい世界よ。それだけ、認めて貰うにも時間がかかる。何年も底辺で頑張れる覚悟があるなら、連絡ちょうだい。って、誘いに来たのに随分な言い草ね。笑って都路社長は手元のファイルを閉じると、それをテーブルの横に除けた。飲み物を持ってきました、と、チャイナドレスに着替えたリンリンが、お盆の上にグラスを載せてやって来る。優しい物腰で彼女は屈むと、盆の上のグラスを丁寧に俺たちの前に置いた。黄色い液体に満ちたグラスから、甘酸っぱい匂いが鼻先まで漂って来る。パイナップルジュースだ、まぁ飲みなさいと、都路社長は笑ってグラスに口をつけた。
 一つ、聞かせて貰っていいかい。俺は音楽はド素人なんだけれども、こいつがそんなに凄い演奏力を持っているっていう、分かりやすい証拠はあるのか。グラスに口をつけたまま、都路社長は小さく唸ると、健太くんの引いてた曲を調べれば、自ずと分かると思うけどね、と、意味深に笑ってみせた。
 異様に酸っぱいパイナップルジュースをを飲み終えた俺たちは、それからしばらく世間話をして都路社長の部屋を後にした。まぁ、それなりに重大な話だからね、無理強いはしないよ。ホテルの前まで俺たちを見送りにきた都路社長は、そんな言葉を最後にB太にかけて、自分の部屋へと戻った。