「味噌舐め星人の月見」


 先輩。あのっ、ちょっと良いっすか。辻から三歩ほど歩いた所で、B太の声が俺の後ろ髪を引いた。何かを決意したようなそんな声。かれこれ数年来の付き合いである後輩のそんな態度を放っておく訳にもいかず、俺は立ち止まった。なんだよ。妙な間が開く。おいおいお前、まさか愛の告白でもしようってんじゃないだろうなと、俺が冗談を言ってせっつくと、B太は少し言い淀んで苦笑いをしながら口を開いた。俺、今から駅前でいつものをやろうと思ってるんすけど、先輩、悪いんすけど、サクラを頼めないっすか。
 はたしてB太の歌にサクラがついた所でどうなるものとも思えない。明日はたまの休日。B太に付き合って睡眠時間をずれ込ますのもどうかというもの。などと、薄情な事も考えたが、何だかんだで、真剣な表情で俺に頼んできたB太に、無下な返事をする訳にもいかず。まぁ、いいかと、俺は頷いたのだった。ただし、アパートで待ってる妹が心配しているといけないので、一旦帰ってからで良いかと条件を付けてだが。いいっすよ、もちろん、というか、よかったら妹さんも連れてきてくださいよ。女の子が居た方が、俺としても気合が入りますから。途端に元気を取り戻したB太は、いつもの、見ているこっちまで元気になりそうな愛想の良い笑顔をで俺に言った。
 ライブの場所を聞いた俺は味噌舐め星人の待つアパートへと戻った。氷のように冷たい階段を上り、ドアノブで静電気を走らせて、部屋の中に入る。暗い部屋の中、窓に顔を向けて座っている味噌舐め星人が居た。起きているのだが、彼女からのおかえりなさいの返事はない。俺がただいまと言ってもなんだか虚ろげな表情で振り返っただけで、またすぐに窓の方を見ると黙ってしまった。あの日、白い女を窓から突き落とした様に見えたあの日から、彼女はずっとこんな調子だ。もっとも、朝は以前とたいしてかわらず、ハイテンションと寝ぼけの中間のような雰囲気なのだが、決まって夜になると、こうして沈み込んだ雰囲気になり、窓の外を見るようになるのだった。
 おい、おい、起きてるか、と、俺は彼女に近づいて、そっとその肩を叩いた。起きてます、寝ているように見えますか、と、落ち着き払った声で彼女は答えた。それは、少しだって幼さの存在しない、彼女の外見に相応しい声色と態度で、俺は本当にこの女が、あの無邪気な味噌舐め星人なのだろうかと不安な気持ちになった。あるいは、これが本来の彼女であって、昼間の彼女はなにかしらの演技ではないのかと思えてくるのだった。そんな俺の思惑など一向に気にせず、彼女は空洞のような瞳で、窓越しに空を眺めている。
 なぁ、どうしてそんな風に夜空ばかり見上げているんだ。少し言い淀んでから、味噌舐め星人は分かりませんと答えた。分かりませんって、と、意味もない言葉口をつく。分からないものは分からないのですとは、彼女は言わなかった。そんな風に空を見つめられると、なんだか、不安な気分になる。竹取物語じゃないが、この異星人は、地球と我がアパートへの来訪者は、今まさに、なにかしらの事情で宇宙に帰ろうとしているのではないか。
 大丈夫、私はかぐや姫じゃないですよ。へぇ、宇宙人のくせにかぐや姫を知っているのか。昔お兄さんが話してくれたじゃないですかと妹は言った。