「味噌舐め星人の忘却」


 居ても立っても居られずにドアを開けた。味噌舐め星人がこちらを振り返り、その向こうに人影が見えた。それはまるで俺の夢の中から抜け出てきたような、白髪の全裸の女だった。小ぶりの胸に、青色の乳輪、赤みの感じられない冷たい肌の色に、薄い陰毛、そして細い細い関節。それが幼さなのか老いによるものなのか判別はつかない。されど、生気を感じさせない病的な色が彼女の体からは滲み出ていた。しかし、そんな彼女の体の中で何よりも俺を驚かせたのは、味噌舐め星人とそっくりそのままな、顔であった。
 ドッペルゲンガーか、はたまた新たな宇宙人が襲来したのか。しかし、先ほどドア越しに聞いた声は間違いなく塩吹きババアのそれである。はたして彼女なのだろうかと、尋ねようとしたとき、味噌舐め星人が立ち上がる。白い彼女の背中には開け放たれた窓。嫌な汗が背筋を走る。それよりも先に、走り出した味噌舐め星人が窓辺に迫る。まさかなと、落ち着き払った脳内の声とは裏腹、味噌舐め星人は白い女を窓へと突き飛ばした。揺らめいた彼女が窓の縁に手をかけて、なんとか押し止まる。そこに、追撃のもう一押し。止めろと俺が叫ぶよりも早く、窓の外に、白い女は頭から落ちていった。
 寒い昼の出来事。白い光を放つ太陽が灰色の雲に隠れた一瞬の出来事。
 不思議と音はしなかった。何かが落ちる音も、何かが崩れる音も、何かがつぶれる音も聞こえてはこなかったし、誰かの叫び声や、誰かの囁き声も聞こえない。俺たちの息遣いが泣ければ、世界から音が消えてしまったのではないかと錯覚してしまったのではないだろうか。俺は味噌舐め星人の隣に立と窓の下を覗いた。そこには、変わらないアパートの庭の風景があって、緑色の芝生に、ひっきりなしに動いている下の部屋のエアコン、そして薄灰色のコンクリートでできた壁があるだけだった。どこにも人の姿は無かった。
 あれはいったいなんだったんだ。突然眩暈がして、気分が悪くなる。まるで見てはいけないものを見てしまったようだ。塩吹きババアを見た時だってこんな気分にはならなかったというのに、一体どうしたというのだろう。そうだ、塩吹きババアだ。先ほどの女は、塩吹きババアではなかったのか。窓の外に落ちて行って、消えてしまったあの女は、塩吹きババアなんじゃないのか。それならば、妖怪であり幽霊かもしれない彼女ならば、消えてしまった謎も何もかも証明がつく。しかし、もし、そうだとして、味噌舐め星人はどうして彼女を突き落としたんだ。あんなに仲が良かった塩吹きババアを、なぜ彼女が突き落とさなければならなかったんだ。そして、なぜ、俺がこの部屋に入ってくるのを止めたんだ。あんな真剣な声で止めようとしたんだ。
 なぁ、お前、いったいさっきの女はなんだったんだ。俺は窓枠に手をぶら下げて、膝を折っている味噌舐め星人に声をかけた。俯いて目を顔を逸らした彼女は、掠れた小さな声で、なんでもありませんと、俺に言った。なんでもないわけないだろう、人を一人突き飛ばしておいて、どういうことか説明しろよ。いつになく、俺は強く彼女に迫ったが、襟元を掴んでこちらを向かせた彼女の顔が、彼女の瞳が、涙に歪むのを見て、言葉は出なくなった。
 なんでもありません。お兄さん。お兄さんは忘れてください、忘れて。