「佐東匡の『ハングドマン』」


 小鳥の囀る音がする。鼻の穴に朝の詰めたい空気が流れ込む。瞼が軽い。
 あくびをするのも憚られるような爽快な目覚め。鏡を見れば目元の隈が綺麗さっぱりと消えていそうな予感がした。微塵の眠気も頭の中には残って居らず、体に溜まった疲れも皆無。こんな風に毎日起きることが出来たならなんと幸せな事だろうか。もっとも、かつてないほどに意味の分からぬ悪夢の後ではあったが。あんな夢を見たとなれば、寝苦しくてかなわないだろう。にもかかわらず、寝汗の一つもかいていない自分の体がよく分からない。
 例によってまだ俺より先に起きている者は誰も居なかった。一番に布団から抜け出した俺は、健康的な寝息をたてて眠る彼女達を起こさないように、本棚から適当に本を抜き出し、壁にかけてあったコートを羽織ると、外廊下に出た。一層寒い外気が分厚いコートを浸透して俺の肌を襲う。こんな寒い朝に外で読書をしようだなんて、とんだ勘違い馬鹿も居たもんだ。そんなくだらない事をして、自分が小説家ドラマの主人公になったつもりなのだろうか。なんてこと思いながらも、俺は扉の前から少し歩いて鉄製の階段に座ると、手に持っていた単行本の表紙を寒さに奮えている手でめくった。
 佐東匡の小説の中で一つだけ異色な作品がある。彼が得意としているのはまず間違いなく恋愛小説だったが、そんな彼が無理をして書いた唯一の推理小説、それが『ハングドマン』だった。拘置所内で繰り替えされる刑務官殺人に、一人立ち向かうことになる駆け出し弁護士の主人公。拘置所内で殺された刑務官が、ある死刑囚と接点を持っていた事に気がつく。その死刑囚とは、十二年前に銀行強盗を働き、逃走の途中で三人の男を轢き殺した凶悪犯であった。最初は仕事と割り切り事件に関して無視を決め込んでいた主人公であったが、懇意にしていた刑務官が首を括られて何者かに殺され、更にその殺人に自分が担当する容疑者が一枚噛んでいることに気づいてしまう。
『世間が生き地獄ならここはもっと酷い。センセイ。ここで人は機械でしかないんです。俺たちはただ命じられた通りに動く事しか出来ない。そしてね、それを握っているのは刑務官だけじゃないんです。もっと何か変な奴が、得体の知れない何かが、刑務官たちの目を盗んで俺たちを操ってるんですよ』
 これを引いてしまうとはついていない。正直なところ、佐東匡の作品の中で一つ嫌いな作品を選べというなら、俺は間違いなくこの本を選んでいただろう。なぜ嫌いかという理由は単純だ、推理小説として到底許すことのできない幼稚なオチだったからだ。加えてこの本からは彼の作品が持っている、匂いが少しも感じられなかった。無理をして、何か、違うものを書こうとしているのが伝わってきて、彼が書きたい話を愛している読者として、とても辛かった。丁度この作品を書いた頃から、彼は文壇において新人としての地位を剥奪され、出版界の厳しい生き残り戦争の中に放り出されることになった。万人に受ける作風がある訳でもなく、かてて極一部のコアなファンを作り出すには得意分野に欠け、唯一得意な恋愛小説は、どれもバッドエンド。
 そんな彼が生きていく為に推理小説家になろうとして、そして失敗した。
 数ページ読んで嘆息が出た。彼の言葉は、この作品の中で死んでいた。