「ビネガーちゃんは最悪な空気をなんとかする女」


 予想外にボロい家に住んでるっすねお兄さん。お仕事何してるんですか。アパートの前につくなりビネガーちゃんは、そんな失礼な質問を俺にぶつけてくれた。別にいいだろうが、人がどんな仕事してようが、どんな家にすんでようが。彼女の質問を軽く無視して、俺は鉄筋製のアパートの階段を登って、ミリンちゃんと味噌舐め星人の居る、自分の部屋へと向かった。おい、居るか。ミリンちゃん、もうそろそろ良いだろう、開けてくれよ。扉をノックしながら彼女に問いかける。薄く、立て付けも悪く、劣化も激しいアパートの扉は、ノックする度にギターの弦を弾いている様な無様な音がした。
 おかえりなさいお兄さん。昨日はどうしたんですか、今までお仕事してたんですか。今、ちょうどミーちゃん寝てる所なんです。ぐったりして疲れて寝てる所なんです。なので、そっと入ってきてくださいね。いや、入りたいのはやまやまなんだが、鍵がしまってて入れないんだよ。あぁ、そうでしたそうでした。そっとという形容には程遠い足音を立てて、味噌舐め星人は俺たちの方へと向かって来た。そして、ドアノブに力が加わった所で、待ってください、なのです、いやっ、待て、と、掠れたミリンちゃんの声がした。
 お兄ちゃんさんを、入れないでください、お姉ちゃんさん。ミリンは、お兄ちゃんさんの顔を、見たくないのです。あの顔を見たら、また、病状が悪化するのです。でもでも、ミーちゃん、お兄さんはミーちゃんの事を心配してくれているんですよ。お薬だって買ってきてくれましたし、看病だってしれてくらました、ご飯も美味しいおじやをつくってくれました。なのに、なんでそんなに毛嫌いするんですか。そうだよ、なんで、そんなにお前は俺のことを毛嫌いするんだよ。俺はドア越向こうで、布団の中で臥せっているミリンちゃんを想像して、そんな事を思った。そんな状態で、何を変な意地を張っているんだよ。そんなに俺の事が嫌いなのかよ。喉の奥がむず痒い。
 ミリンちゃんから返事は帰ってこなかった。代わりに、酷い咳が聞こえて俺は焦った。だから、早く開けろよ。お前とお前のお姉ちゃんさんでどうにもならないのは、なんとなく分かってるんだろう。ドアノブを何度も捻り、手前に引いて、奥へと押し込む。しかし、目の前のドアは開かず、緩んだ蝶番が情けない音を鳴らすだけだった。止まないミリンちゃんの咳。そして、帰ってください、お兄ちゃんさんという、拒絶の言葉。馬鹿野郎、帰る場所はここなんだよというジョークさえも言えない。お手上げ。この最悪にシリアスな空気をなんとかしてくれるなら、俺はもう幾らだって払うね。
 なるほどなるほど、ミリンちゃん先輩が中で籠城中ってことっすか。いやいや嫌われたもんですね。お兄ちゃん失格ですよ、そんなんじゃ。そいじゃまぁちょっとどいてくれやすか。ここはアタシに任せてくださいな。任せてくれって、いったいどうするつもりだ。いいからいいからと扉の前から俺を追いやると、ビネガーちゃんは鼻歌を歌いながら髪を掻き乱し、中から日本のヘアピンを抜き出した。これをこうして、こうして、ふんふんふん。案の定、扉の鍵穴にヘアピンを差し込んだ彼女は、手際よく細く黒い棒を操ってみせた。まさかそんなと思っている内に、扉は小気味よい金属音を立てた。