「っす女は人懐っこく道を尋ねる」


 いやー、ありがとうっす、助かったっす、うっす、うっす。冗談みたいに頭を何度も下げながらそう言うと、女は手を振って俺の前から去って行く。その進行方向が俺が住むアパートと同じ方向で、俺はもうどうして良いか分からなくなって頭を抑えた。この女、さては俺の家に来るつもりなんじゃないだろうかと、馬鹿げた予感が頭に浮かぶ。激しく頭を左右に振って、そんな不吉な考えをどこかへと霧散させると、とりあえず、彼女の姿が見えなくなるまでここで時間を潰すとしよう。俺はタバコをズボンから取り出すと、駅のホーム隅に設置されている喫煙コーナーに赴き、先端に火をつける。こんな自分からタバコを吸っている奴などそうそういないだろう、案の定、駅員に怪しげな眼差しを向けられたが、あの無駄に暑苦しい女の騒々しい口調と甘ったるい眼差しに纏わり付かれることを考えたら、幾らかマシだった。
 電車内での地獄のようなやりとりを思い出す。きゃぁきゃぁとどこの方便とも分からぬ言葉遣いで嬉々として喋る女は、普通電車に乗り換えても周囲の人間の視線を不必要によく引いてくれた。おかげで彼女と成り行きで同行している俺にもその責めるよ視線は注がれる事となり、本当に居たたまれない思いをした。バカップルだと思われたくない一心で、乗ってから降りるまでの三駅の間、常に嫌な顔をしていたが、はたしてそれにもなんの効果もなく、少しの例外もなく俺に同情するような表情を向ける者は現れなかった。窓に映る暗く沈んだ自分の顔に、自ら同情の視線を向ける他なかった。
 タバコ一本を吸い終えると、俺は改めてホームを出た。面倒くさそうかつ怪しむようにホーム入り口に立った駅員に、俺は涼しい顔で切符を渡すと、家の方へと向かう道の上に、先ほどの「っす女」が居ないことを確認した。
 やれやれ、どうやら本日の天中殺は終わったらしいね。どこにも彼女の姿が見当たらず、ほっと一息ついたときだ。およよ、また元の駅に戻ってきてしまいやしたよ。参ったっすね、アタシの方向音痴にゃぁ。あや、そこにおわすは先ほどのお兄さんじゃないですか。なんです、お兄さんも迷子でやんすか。いやはや、都会もたいがい迷いますが田舎もたいがいなもんですね。後ろから声がして振り返ると、にんまりとそれはもう惚れてしまいそうなほど良い笑顔を浮かべた、人懐っこいアニメ声の少女がそこに立っていた。もう勘弁してくれよ、俺が一体何をしたって言うんだ。ダメだ、どうやらまだ俺の天中殺は終わっていないらしい。ここ最近、ずっとそんな感じだが。
 迷子じゃねえよ、お前が居なくなるのを待ってたんだよと、言ってやろうかと思ったが、ぐっと堪えた。タバコを吸ってたんだと、駅のホームを指さすと、なるほどなるほど、確かにそれとなくニコチンにの匂いがしやすねえと、彼女は相変わらずの笑顔で言った。そういえば、お兄さんここいらに住んでいるんでしたっけ。それじゃぁ、この住所への行き方とか分からないっすかねぇ。にこやかな表情の彼女は、アニメのプリントが入った鞄から、ゼンリンの地図のコピーを取り出した。なんとも本格的な地図に、蛍光ペンでマーキングされていたのは、あろうことか俺の住むアパート。そして書き込まれているメモには、俺の名前とミリンせんぱいの別荘と書かれていた。