「酢堂のメイドは面堂をみる」


 所々ワックスが剥げた汚らしい階段を俺は下の階に向かって降りる。無駄に木目の鮮やかなドアが降りたところの左手についていて、奥にそれを押し込むように開くと、頭が痛いことにそこは実に基本に忠実なわかりやすいメイド喫茶になっていた。普段は絶対に出さないような甲高い声で注文を読み上げる、黒と白の洋服を着た女の子たち。驚くほどに無駄のない服装をしてはにかむ、騒ぎながらもどこか気恥ずかしさを拭い去れない男たち。体育会系の宴会に、無理やりひきこもりが放り込まれような感覚。異分子の混入で不協和音に静まり返ったコミュニティ。なんとなく気分が落ち着かない。
 というか、働いている人物にも内装にもどこか見覚えがある。そう、過去に俺はここに来たことがある。ここは、いつぞや味噌舐め星人とミリンちゃん、砂糖女史と一緒に入ったメイド喫茶に違いなかった。それはそうだ、酢堂のやっている店なのだから。やれやれ勘弁してくれよ、何が酷く酔っ払っていて、家に運ぶよりは店に運んだ方が近いので、だ。特急電車でも一時間もかかる場所じゃないか、よくもまぁ、そんな手間をかけたものだ。その情熱をもっと違う所に使った方が良いと思う。小説とか絵とかそんな物に。
 あら、お帰りですか。キッチンに立ち、女コックやメイド達に指示を出していたメイドが俺に声をかけた。先ほど俺に水を運んでくれた人だ。改めて周りのメイド達と見比べると、平均年齢より少し歳が高いように見えなくもない。それでも、充分過ぎるほどに彼女が美人な事には変わりないのだが。
 俺が思い出したようにお辞儀をすると、彼女は優雅な動作で微笑んで、こちらへとやってきた。社長がこうして店にお友達を連れてくるのは初めてですよ。いえ、ご自宅の方へお招きになるのも珍しいのですけどね。まぁそうだろうね。彼のような人間は、社会に出れば無闇矢鱈に敵を作るばかりで、友達も恋人も上手く作れないに違いないだろう。今こうして、俺が来ているのだって、実の所は友達でも何でもなく、彼に拉致されたに過ぎない。それでも、酢堂が友達を招いたことを、どことなく喜んでいる様子の彼女に対して、真実を告げる勇気も俺にはなかった。適当に話を合わせる事にして、そうですね、こうして店に招かれるのは初めてですよと、俺は言葉を返した。
 あまり人好きのされない方ですが、根は悪い人ではないんです。どうか、これからも社長と仲良くしてあげてくださいね。なんともまぁ、どこぞのコンビニ店長の母親のような事を言う人だ。たかだかが雇われの使用人にここまで心配されるのも、人徳というかなんというか。まぁ、それは分かってて付き合ってるつもりですと、俺はまた適当に色よい言葉を選んで口にした。口元を微かに釣り上げて笑う彼女の顔は、紛れもなく息子のことを心配する母親の顔であった。あぁ、所で、今日はこの後どうやって家までお帰りになるつもりですか。いや、普通に電車に乗って帰りますよ。それでしたらと、彼女はなにやらエプロンのポケットにおもむろに手を突っ込み、仕立てのよい皮財布を取り出してみせた。これを帰りの運賃代としてお使いください。そう言って彼女が差し出したのは、特急に乗っても釣りが十分に出る諭吉三枚。いや、いやいやと、さすがに今渡ばかりは色よい返事もできなかった。